嘉弥真新也の出身高校

嘉弥真新也 プロ野球選手

嘉弥真新也卒業高校
八重山農林高校 偏差値 沖縄県高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
4712位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1989年11月23日生まれ

嘉弥真 新也(かやま しんや、1989年11月23日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(投手)。

1989年11月23日に沖縄県石垣市で生まれた。白保轟小学校4年時から、地元の少年野球チームの白保轟で野球を始める。

八重山農林高時代は、外野手兼2番手投手としてプレー。3年時の夏は、沖縄県大会で自身が打たれ初戦敗退。

高校卒業後、2008年に不動産管理会社のビッグ開発(那覇市)に入社、同社野球部のビッグ開発ベースボールクラブに所属。当初は4、5番手投手だったが、監督の厳しい練習の元で120km/h台だった球速を140km/h台まで上げるなど、徐々に力を付けて主戦投手となった。在籍3年目の2010年、第81回都市対抗野球大会の沖縄県1次予選では、敗者復活代表決定戦で前年本大会出場の沖縄電力を破る大波乱を演じ、これがJX-ENEOSで監督を務めていた大久保秀昭の目に止まり、同年12月に移籍した。なお、同年の都市対抗後に行われた西日本クラブカップではMVPを獲得する活躍を見せ、所属チームの初タイトル獲得に貢献した。

春から公式戦に起用され、第82回都市対抗野球大会では、1回戦の王子製紙戦で救援登板するも制球を乱し降板となった。10月27日、プロ野球ドラフト会議で福岡ソフトバンクホークスより5位指名を受けた。

プロ1年目は二軍でスタートし、ウエスタン・リーグ公式戦で3月20日から5月1日まで中継ぎとして10試合登板し、防御率0.00、WHIP0.82、奪三振率9.82を残した。5月2日、金澤健人の離脱により一軍へ合流し、5月4日に出場選手登録され、同日本拠地福岡 Yahoo! JAPANドームで行われた対東北楽天ゴールデンイーグルス戦に8回5点ビハインド二死一三塁からプロ初登板し、内村賢介に二盗され、聖澤諒にはフルカウントから四球を出すが西村弥をライトフライに打ち取り満塁を切り抜けた。9回は先頭の鉄平に安打を許すも、残りを併殺とゴロに打ち取り、1回1/3を無失点に抑えた。その後2試合僅差ビハインドから登板し、5月10日は吉川輝昭、5月11日には甲藤啓介に走者を返されて連続失点となった。同年4試合目となる5月16日の対東京ヤクルトスワローズ戦で7回から交流戦初登板したが、二死取った所から高谷裕亮のパスボール、8回は今宮健太の悪送球タイムリーエラーがあったものの、2イニングを投げ4安打3四球6失点(自責4)と打ち込まれ、5月17日に二軍降格となり、同年の再昇格は無く終わった。7月19日にHARD OFF ECOスタジアム新潟で行われたフレッシュオールスターゲームに4番手で登板し無失点に抑えた。ウエスタン・リーグ公式戦では最終的に中継ぎ32試合で防御率1.19、WHIP1.06、先発は2試合8イニングを投げ防御率4.50だった。10月6日のファーム日本選手権では2番手で登板した。オフにはプエルトリコのウィンターリーグに派遣され、11月10日から12月20日までの7試合に先発し、1勝3敗、防御率は規定到達者最下位の5.30だった。

開幕は二軍で迎えたが、5月25日まで中継ぎ10試合で防御率0.69、WHIP1.15、先発では4試合25イニングを投げ防御率0.72、3勝0敗の成績を残し、5月度のミズノ月間MVP (ファーム月間MVP)を受賞。その活躍により5月31日に一軍へ昇格した。6月23日から僅差ビハインドからの登板が増え始め、7月15日にQVCマリンフィールドで行われた対千葉ロッテマリーンズ戦では4回1点ビハインド二死満塁から2番手で登板し、根元俊一をセカンドゴロで切り抜けると、5回は無失点に抑え、裏に田上秀則、山崎勝己、内川聖一と3本のタイムリー二塁打で5点の援護を得て、6回は3者凡退に抑えてプロ入り初勝利を挙げた。これを境に夏場は2イニングを越えるロングリリーフでの起用が増えた。8月2日に本拠地福岡 ヤフオク!ドームで行われた対埼玉西武ライオンズ戦では延長11回同点から登板し、二死一二塁で降板となったが、代わった柳瀬明宏が後続を断ち切ったことで、プロ入り初ホールドを挙げた。8月29日の対千葉ロッテ戦で先発の大場翔太に代わり4回1点リード一死三塁から登板し、迎えた角中勝也にレフトへ犠牲フライを打たれて即同点に追いつかれて救援失敗。しかし同裏に明石健志のスリーランホームランにより再び勝ち越し、6回二死まで無失点に抑えて本拠地でプロ入り初勝利を手にした。9月16日の対北海道日本ハムファイターズ戦で6回同点無死一塁から登板して3者凡退に打ち取り、裏に明石健志、本多雄一のタイムリー安打で3点の援護を得て3勝目を本拠地で挙げた。9月19日の対楽天戦でプロ入り初先発を果たし、4回までを無失点と好投。しかし5回に松井稼頭央の安打と自身のフィルダースチョイスにより二死二三塁とすると岡島豪郎の内野安打と藤田一也の二塁打で2点を失い、5回で降板となった。なお8回の本多雄一の同点打により負けは付かなかった。10月4日の対日本ハム戦で五十嵐亮太の後を受け4番手として8回3点リード無死満塁から登板し、代打・鶴岡慎也のタイムリー安打、中島卓也のショートゴロの間にさらに1点、杉谷拳士に逆転となる2点タイムリーで計4失点し、プロ入り初黒星を喫した。この敗戦によりチームは2位の可能性が完全に消滅し、CSの進出の可能性もほぼ無くなった。最終的に防御率2.32の好成績で終えたが、走者のいる場面で22試合登板し、うち半分の11試合で走者を生還させるなど僅差を大差に広げる登板で首脳陣からの期待を裏切る形となった。また僅差リードから登板した5試合のうち3試合で同点に追いつかれた。

11月21日、秋季キャンプ中に秋山幸二監督から監督室に呼び出され、翌年の先発ローテーションに入るよう通達された。首脳陣と相談の上、自主トレ中に計1000球の投げ込みを敢行することも決め、11月28日の契約更改交渉の席でもその計画を語った。

1月15日、グアムでの森福允彦との自主トレ中に意見を翻し、秋山幸二監督ではなく加藤伸一投手コーチに電話で先発転向はせず同年も中継ぎで臨むと断りを入れた。

春のキャンプでは紅白戦で6失点するなどB組で終えたが、開幕は一軍で迎えた。5月14日の対千葉ロッテ戦で延長11回から登板して二死二塁とすると、角中勝也にストレートのフォアボールを与え、続く荻野貴司へ投じた初球の甘い球を弾き返され前進守備の柳田悠岐の頭上を越えるサヨナラ打により敗戦投手となった。これによりチームは3連勝でストップ、昨季からの延長戦4連勝も止まり、シーズン初のサヨナラ負けを記録した。7月14日の対千葉ロッテ戦では先発・ジェイソン・スタンリッジの危険球退場により、3回同点二死一三塁から登板し、大松尚逸をフライに打ち取って切り抜けたものの、続く4回に加藤翔平に先制打を打たれて降板。残りのリリーフ陣は無失点で繋いだがその1点によりシーズン2敗目を喫した。8月15日に二軍降格し、9月25日に一旦昇格し1試合出場したが9月30日に再び二軍へ落ちそのままシーズンを終えた。最終的に32試合に登板し、4点差以上の大差からの試合が15試合と前年より増えたにもかかわらず、防御率・WHIPともに悪化させた。前任投手が残した15走者で6失点し、前年に引き続き他人の走者を返す投球だった。

秋山監督が辞任後のオフには11月29日先発への本格転向を視野に入れ、阪神タイガースの先発能見篤史に合同自主トレを申し入れ、 12月22日、工藤公康新監督への弟子入り志願を掲げ先発転向を希望した。

スリークォーターから最速142km/hのストレートとスライダー・カーブ・チェンジアップ・シュートなど多彩な変化球を投げる。

ナックルカーブのように不規則な軌道で沈む嘉弥真ボールを決め球としている。右打者へのインコース攻めに有効で、人差し指と中指を内側に折り曲げ、親指、薬指、小指の3本で支える独特の握りで、球の変化は自身にもわからない球と述べている。

2001年の第73回選抜高等学校野球大会にて宜野座高校が使用し、話題となった宜野座カーブの使い手でもあり、ビッグ開発ベースボールクラブ時代に、宜野座高校まで出向き伝授してもらった。

チェンジアップは2012年オフのプエルトリコウィンターリーグで習得した。左打者を苦手としていたが、森福允彦らの助言により内角をシュートで突けるようになり、その結果スライダーも有効になった。

両親が12人兄弟で、親戚が200名以上いる大家族である。

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