和田昌裕の出身高校

和田昌裕 サッカー選手

和田昌裕卒業高校
御影高校 偏差値 兵庫県高校偏差値ランキング
サッカー選手ランキング
221位 / 1982人中 サッカー選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1965年1月21日生まれ

和田 昌裕(わだ まさひろ、1965年1月21日 - )は、兵庫県神戸市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー、ディフェンダー。次男の和田篤紀および三男の和田倫季もサッカー選手である。

神戸FCでプレーしていた兄の影響で小学2年生のときにサッカーを始める。1983年の兵庫県立御影高校3年次に同校にとって初の全国高校サッカー選手権大会出場(1回戦で準優勝した山梨県立韮崎高校に敗退)。近くの御影工業高校には永島昭浩がおり、同学年の和田と永島はライバルと周りから目されていた。順天堂大学蹴球部では1年次に総理大臣杯に優勝。筑波大学との決勝戦では和田のゴールにより1-0で勝利した。

1987年に日本サッカーリーグ2部の松下電器産業サッカー部(1992年からガンバ大阪)に入部。三菱重工からも誘われたが関西のチームであることと永島がいることから松下に決めたという。JSL1部に復帰した1988-89シーズンにはアシスト王(9アシスト)にも輝いた。1993年5月16日のJリーグ開幕戦の浦和レッズ戦では前半29分にG大阪のリーグ戦チーム初得点を記録した。

1995年7月、G大阪からヴィッセル神戸(当時ジャパンフットボールリーグ (JFL) 所属)に移籍。Jリーグ昇格に貢献し、1997年に現役を引退した。

現役時代は主に左サイドバックでプレー。

引退後は神戸のスタッフを歴任。2005年はヘッドコーチ、2006年からは強化部長、2007年からはチーム統括本部長を務め、2009年6月、カイオ・ジュニオールの辞任表明を受け、トップチームの監督に就任 。わずか5試合を指揮したところで三浦俊也に交代したが、フロントには戻らず、ヘッドコーチとして引き続き現場での指導者職に就いた。

2010年9月12日に三浦の監督解任を受け、再び神戸の監督に就任。「用意周到」「一致団結」「プライド」「信頼」のキーワードで自らの考えを選手に示し、スタメンから遠ざかっていたMF吉田孝行、2種登録のFW小川慶治朗を抜擢するなど、前監督とは異なるスタイルでチームを指揮。シーズン終盤7試合では戦術が浸透し、上位チームにも屈さず見事大逆転でのJ1残留を成し遂げた。2011年も引き続き監督を続投。和田自身は初の1シーズン通しての監督業だったがクラブ史上最高順位となる9位でシーズンを終えた。

翌2012年は目標を「AFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得する4位以内」としたが 、リーグ戦・ナビスコ杯で通算6連敗するなどし、リーグ戦では第8節時点で3勝5敗の13位に低迷。成績不振を理由に同年4月30日付で監督を解任された。同年7月1日付で神戸のシニアディレクターに就任。

2013年より神戸の運営会社のクリムゾンフットボールクラブの取締役副社長に就任。同年11月末で副社長を辞任し、タイ・プレミアリーグのチョンブリーFCの監督に就任。タイ・プレミアリーグで初の日本人監督となった。チョンブリーではリーグ戦でブリーラム・ユナイテッドと最後まで優勝争いを演じ、2014年シーズンのタイ・プレミアリーグ年間最優秀監督賞を受賞した。

2014年12月、J2・京都サンガF.C.から2015年シーズンの監督就任が発表されたが、2015年7月10日に成績不振で解任された。解任時点でチームは18位と低迷していた。

2015年10月22日、タイ・プレミアリーグのポートFC監督就任が発表された。

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