友利結の出身高校

友利結 プロ野球選手

友利結卒業高校
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性別
男性
生年月日
1967年9月21日生まれ

友利 結(ともり ゆい、1967年9月21日 - )は、沖縄県浦添市出身の元プロ野球選手(投手)。2014年シーズンより中日ドラゴンズの投手コーチを務める。

1967年に沖縄県で生まれた。父親がアメリカ人で母親が日本人のハーフ。日本名は「友利 結」だが、アメリカ名はローレンス・フランクリン・デニーという2つの名前を持つこととなった。小学生の時に野球を始めるが、途中でポジションを変えることなく投手に専念する。興南高等学校進学後は名幸一明(現・NPB公式審判員)とバッテリーを組んでいた。

1986年のプロ野球ドラフト会議において、横浜大洋ホエールズから1位で指名され、入団。背番号は30。なお、プロに指名されなければ松下電器野球部に入団予定で、その顔合わせなどで後にチームメイトになる潮崎哲也、原井和也とプロ入団前から面識があった。

新人ながら1987年の終盤に初登板・初先発を果たす。オフにはアリゾナ教育リーグの参加と、パイオニアリーグのビュート・カッパーキングスへ野球留学するなど、首脳陣から期待されていたがなかなか芽が出なかった。このため、一時は任意引退の手続きを取って支配下登録を外れた「練習生」となったこともあった。

このままでは活躍できないことから投球フォームをサイドスローへ変更したが、これによって長年指摘され続けていた制球力の悪さが改善され、潜在能力を開花させることになる。

1995年、登録名をデニー友利に変更。同年10月6日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)では4番手として登板し、その後逆転したため9年目にして初勝利を挙げた。7日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)では3番手として登板して試合を締めくくり、初セーブを挙げた。

1997年、当時の西武監督東尾修の希望と、本人が志願したこともあって、長見賢司との交換トレードで西武ライオンズに移籍。登録名はデニーとなった。

1997年、同じサイドスローの鹿取義隆・潮崎哲也の助言を受けて才能が再び開花し、中継ぎ投手として勝利に貢献。当時監督だった東尾修から「コントロールに自信なんてないだろ。全力で腕を振って投げろ。バッターが怖がるから」と言われたことでピッチングのコツをつかんだという。右の中継ぎ投手としてチームに欠かせない存在となったデニーは、1998年のリーグ連覇にも大きく貢献した。同年にはオールスターゲームにも初出場したほか、日本シリーズでは古巣・横浜との対戦となり古巣の同僚からも対戦相手ながら声をかけられたり、登板時に横浜ファンからも声援があった。登板2試合でいずれも好投した。以降も平均50試合を投げ、チームの戦力的・精神的支柱な存在になった。

2002年、チームの選手会長を務めたが、同年は中継ぎ投手陣の不調・酷使にも関わらずほとんど登板機会が無く、一部ではこの年から監督に就任した伊原春樹や投手コーチの松沼博久との不和が噂された。夏以降は日本シリーズを見据えて調整していたが、日本シリーズの出場有資格リストからも外れた。

2002年オフ、前田和之との交換トレードで古巣・横浜ベイスターズに復帰、翌年から登録名を再びデニー友利に変更した。

2003年、この年から新監督となった山下大輔の構想で、それまでストッパーを務め先発に再コンバートする斎藤隆に代わるストッパーとして期待されたが、登板すれば打たれるの繰り返しで1勝8敗7セーブと結果を残せず、中日からウェーバーで移籍してきたエディ・ギャラードにストッパーの座を明け渡す形になり、翌年も全く機能できなかった。2004年オフにはMLB入りを前提とした自由契約となった。その後、アメリカで自らトライアウトを行い、2005年にボストン・レッドソックスにマイナー契約で入団したものの、メジャーに昇格することは出来なかった。

メジャーリーグでは活躍できなかったことから日本に戻り、2006年に中日ドラゴンズとの契約が成立。登録名はデニー・友利とすることも併せて発表された。

高齢で横浜を自由契約になったものの、最速150km/hの直球を軸にした若々しい投球内容で勝負する。シーズン当初は不安定だったもの、6月14日の対西武ライオンズ戦から徐々に安定感が増し、中日の中継ぎに欠かせない投手となった。チームの優勝に貢献したが、日本シリーズでは登板機会が無かった。

2007年は登録名を再びデニーとした。同年はシーズンの大半をウエスタン・リーグで過ごし、レギュラーシーズン終了前に戦力外通告を受けた。落合博満の計らいもあって、同年10月4日の本拠地最終戦(対広島東洋カープ戦)が退団試合となり、同年限りでの退団を表明した。現役続行の可能性を残していたがオファーはなく、同年11月27日に現役引退を表明した。

2008年はボストン・レッドソックスで国際担当顧問兼巡回コーチに就任したほか、ニッポン放送の「ショウアップナイター」で日本のプロ野球の試合解説を担当した。また、日刊スポーツ評論家も務めた。野球評論家としての名義はデニー友利とし、吉本興業スポーツ部に所属していた。同年に行われた「RICOHプレゼンツ MLB開幕戦」では、レッドソックスのチームスタッフとして松坂大輔・岡島秀樹に同行して参加している。

2012年からは、横浜DeNAベイスターズの一軍投手コーチとして現場復帰することになった。登録名は「目立たないために」という本人の意向により、友利結となる。背番号は89。登録名は友利としたものの、長年デニーを登録名としていたためか、しばらくするとほとんどの人がデニーと呼ぶようになったという。DeNAコーチ時代は、闘志を全面に出した指導を主にし、投手の交代時やピンチを招いた時にマウンドへ行き、投手の胸を軽く叩く〝闘魂注入〟を行う事がよくあり、グッズとして闘魂注入パーカー等が当時販売されていた。投手陣の与四球が大幅に増え2012年は480、2013年は551と2年連続で12球団ワーストの与四球を記録した。2013年の551はこれまでの球団ワースト記録だった1976、77年のシーズンの502を上回る、球団ワースト記録。チーム防御率、失点も2年連続で12球団最下位に低迷し、2013年10月9日に球団から来季の契約を結ばない事が発表された。

2013年10月22日、2014年シーズンより中日ドラゴンズの投手コーチに就任することが発表された。

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