佐山聡の出身高校

佐山聡 スポーツ選手

佐山聡卒業高校
水産高校 偏差値 徳島県高校偏差値ランキング
スポーツ選手ランキング
2319位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1957年11月27日生まれ
血液型
A型

佐山 聡(さやま さとる、1957年11月27日 - )は、日本のプロレスラー。総合格闘技の元祖とされる団体・シューティング(現・修斗)の創設者としても知られ、設立当時総合格闘家としても活動していた。2012年現在、本人の設立した武道団体・掣圏真陰流興義館総監を務め、武道家としても活動している。血液型B型、山口県下関市出身。

覆面レスラー・タイガーマスクとして空前のプロレスブーム、社会現象を巻き起こす。その後は、UWFで後にU系と言われる独自のルールと打・投・極による格闘技色の強いプロレススタイルを考案し、さらに前述の修斗を創設した。現在は掣圏真陰流を創始し、自身の団体リアルジャパンプロレスを創設した。

中学生(下関市立長府中学校)時代に沢村忠の影響で格闘技を志しレスリングや柔道始め、その後山口県立水産高等学校に入学するが、1年で中退して1975年7月に新日本プロレスに入門、1976年5月28日に魁勝司戦でデビュー。

1977年11月14日に行われた梶原一騎主催の「格闘技大戦争」で、全米プロ空手ミドル級第一位のマーク・コステロと両者ボクシンググローブ着用・統一ルールの下、対戦した。目白ジムで打撃トレーニングを積んで試合に挑んだ佐山だったがリーチの差と寝技無しのルールに苦戦し、1Rこそ果敢にバックドロップ、反り投げなどの投げ技を繰り出すが(ただし反則)ボクシンググローブ着用のため技が決まらない。2R以降はパンチ・キック・膝蹴りと一方的に攻めまくられ、毎ラウンド「ダウンしては立ち上がる」の繰り返しとなった。プロレスラーとしてのプライドで何とかKO負けこそ逃れたものの、6R終了まで良いところなく屈辱的な判定負けを喫した。

リング下ではアントニオ猪木、ストロング小林、ウィレム・ルスカらが観戦し、セコンドでは山本小鉄が鼓舞激励するというプロレスの威信をかけた試合だった。なお、この試合に負けたから打撃を取り入れた格闘技に傾倒していったのではなく、元々リアル指向で、会社に内緒で打撃の練習をしていた(そんなところからこの試合に抜擢された)。

1978年にメキシコへ渡り、「サトル・サヤマ」のリングネームで活動。慣れない環境や食生活で、体重が20kg近く減るなどの苦労をしつつも、NWA世界ミドル級王座を獲得し、グラン浜田とのタッグでも活躍した。1980年にはイギリスへ渡りブルース・リーの従弟こと「サミー・リー」のリングネームで東洋武術を彷彿とさせるスタイルのプロレスラーとして大活躍した(立場は完全なベビーフェイスで決め技は日本とは違い風車式のバックブリーカーを多用した)。後にイギリスへ渡った前田日明は、「サミー・リー」の弟というギミックで「クイックキック・リー」のリングネームで活躍したことからも明らかであるように、この「サミー・リー」の当地における人気は日本における「タイガーマスク」の人気に匹敵するものであった。

なお、漫画『プロレススーパースター列伝』にて描かれていた、メキシコ遠征時に名乗ったとされる、覆面レスラー「ティグレ・エン・マスカラド」や、目の回りに隈取りを施したペイントレスラー「ミスターカンフー」はフィクションであり、実際はこれらのリングネームは使われておらず、一貫して素顔で試合を行っている。

新日本プロレスから「タイガーマスクの映画を撮るので、帰国して欲しい」という連絡を受ける。当時イギリスでサミー・リーとして大変な人気で、マーク・ロコ(後のライバル、初代ブラック・タイガー)とのタイトルマッチを目前に控えていたこともあり帰国を断るが、「1試合だけでいいから、アントニオ猪木の顔を潰さないで欲しい」と説得され帰国。タイガーマスクとしてリングに上がるが、渡されたマスクやコスチュームの出来の悪さに泣きそうになったと、後に回想している(これはデビュー戦の相手を務めたダイナマイト・キッドも同様のコメントを残している)。なお、漫画『プロレススーパースター列伝』では渡されたマスクを手に取り、「悪くない」と発言しているが、これはフィクションである。

海外遠征から帰国後、梶原一騎原作の漫画『タイガーマスク』から現実のヒーローとして、新日本プロレスに彗星のごとく登場した。また、この時期テレビ朝日系でアニメ『タイガーマスク二世』の放送が開始され、メディアミックス展開も行っている。初代タイガーマスクとしてのデビュー戦は、1981年4月23日、蔵前国技館におけるダイナマイト・キッド戦。

デビュー戦のマスクは雑な作りの粗悪なもので、マントもまるでシーツのような物であった。佐山自身は物理的な羞恥の他にも、漫画の世界を現実に持ち込むことは「新日本プロレスで浮いた存在」になるのではないかと懸念していたが、数々のオリジナルムーブとフィニッシュのジャーマンスープレックス・ホールドでデビュー戦にして人気をさらった。

新日本プロレス伝統のストロングスタイルをベースに、全米プロ空手流の打撃技と武者修行先で培ったルチャリブレ(メキシコ式プロレス)の空中殺法とを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルは、全国的に空前のタイガーマスクブームを巻き起こした。そのファイトスタイルは、実況の古舘伊知郎によって「四次元プロレス」、「四次元殺法」と形容された。タイガーマスクの試合を中継した『ワールドプロレスリング』の視聴率は、ほぼ毎週25%を超え地方興行も空前の大入り満員が続いた。子供たちの間では、新日本プロレスの看板レスラーであるアントニオ猪木を凌ぐほどの人気を獲得していた。

1982年は、1月1日に王座決定戦でダイナマイト・キッドを破りWWFジュニアヘビー級王座を獲得。5月25日にはレス・ソントンからNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取し、WWFとNWAのジュニアヘビー級王座を史上初めて統一した。この時期の代表的な好敵手としては、デビュー戦の相手でもあったダイナマイト・キッドをはじめ、ブレット・ハート、ブラック・タイガー、スティーブ・ライト、ピート・ロバーツ、小林邦昭などが挙げられる。また、アントニオ猪木や藤波辰巳と組んでの6人タッグマッチにも出場し、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ワフー・マクダニエル、スーパースター・ビリー・グラハム、バッドニュース・アレン、ダスティ・ローデス、マスクド・スーパースター、ドン・ムラコ、グレッグ・バレンタイン、ボブ・オートン・ジュニアなどヘビー級の外国人選手とも対戦した。

ジュニアヘビー級王者としてアメリカのWWFにも遠征し、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンやフィラデルフィアのスペクトラムにおいて、ダイナマイト・キッド、カルロス・ホセ・エストラーダ、エディ・ギルバートらを相手に防衛戦を行ったこともある。1982年11月から12月にかけてのWWFサーキットでは、12月4日にマサチューセッツ州スプリングフィールドにて、当時のWWFヘビー級王座のトップコンテンダーだったプレイボーイ・バディ・ローズを下し、12月7日にはペンシルベニア州アレンタウンにて、当時WWFを主戦場としていたミスター・サイトーことマサ斎藤からも勝利を収めている。サーキット中は、斎藤のパートナーだったミスター・フジや若手時代のカート・ヘニングとも対戦した。

人気絶頂の最中、新日本プロレスでの活動には突然終止符が打たれた。1983年5月に漫画『タイガーマスク』の原作者である梶原一騎が講談社編集者への暴行容疑で逮捕され、社会的影響度から改名問題が浮上する。8月4日、デビュー戦と同じ蔵前国技館で行われた寺西勇戦の試合前に改名を予告し、ファンに新リングネームを当てさせるクイズ企画も用意された。しかし、8月10日に新日本プロレスに対して契約の解除を一方的に告げ、突如引退を宣言した。契約解除の通告書では、タイガー人気で得られた収益が猪木の個人事業「アントン・ハイセル」へ流用されていることを糾弾した(8月末に社内クーデター騒動が勃発し、猪木が社長を一時辞任)。佐山個人は結婚式を海外で極秘に挙げるようフロントから強要されたことに憤りを感じており、タイガーブームの仕掛け人である新間寿と佐山の個人マネージャーだったショウジ・コンチャが対立していたという事情もあった。

9月21日付の東京スポーツに素顔の写真が掲載され、タイガーマスクの正体が佐山であることが公開される。テレビ朝日系のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』にゲスト出演し、自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。

新日本プロレスでタイガーマスクとして活動した2年4か月間のシングル通算戦績は155勝1敗9分けで、この1敗はダイナマイト・キッドをフェンスアウトさせての反則負けであり、シングルとタッグを含めて一度もフォール負けがない。

初代タイガーマスク時代、小林邦昭に何度もマスクを破られたり、剥ぎ取られそうになった。それまでの覆面レスラーにもマスク剥ぎがなかったわけではないが、基本的には覆面レスラーのマスクには手を掛けないのが暗黙の了解で、小林のように毎試合マスクに手をかける行為はそれまでなかったものであった。

それ以後、歴代タイガーマスクや、女子プロレスにおける派生キャラクター、タイガードリーム、タイガーエンジェル等の試合でも、マスク剥ぎが「お約束」として必ず入っている。後に佐山は小林と対談した際に、マスク剥ぎのことに触れて「先輩(小林)がのし上がるためならと、僕は我慢していたんですよ。」と語っているが(両者は実際には仲が良かった)、実際それ以降の小林は『虎ハンター』として完全にブレイクする。

人気絶頂期での引退発表を行った頃、自身のジム「タイガージム」を設立。ザ・タイガーとして、ほぼ同時期に新日本プロレスを退団した山崎一夫をインストラクター兼スパーリングパートナーに迎え、新格闘技と称して新しいスポーツを模索する中、1984年7月23日、24日にUWFの「無限大記念日」興行に約1年振りの現役復帰。高田伸彦と組んで、前田日明、藤原喜明とのタッグマッチを行った。

ザ・タイガーのマスクデザインは額の赤いマークが廃され、新格闘技ではアップライトスタイルからのキックが重要になってくるため、スポーツとして蹴られた相手を必要以上に傷つけない様、脛当て(レガース)が佐山により考案された。この時期にも、バラエティ番組では自らマスクを脱ぎにらめっこ勝負を行なったりしていた。

UWF正式入団時にスーパータイガーと改名(タイガージムが商標登録しているザ・タイガーの名称が使用できないため)。紫×銀のマスク+コスチュームに一新。藤原との試合でがぶられて(上からホールドされること。レスリングでよく使われる言葉)スタミナを失い、アームロックから逃れられずに腕を脱臼したことから、スーパー・タイガー名義のままで素顔にて試合をするようになる。自身のジムは一旦閉鎖し、「スーパータイガージム」として後に再スタートする。

リング上では前田、藤原、高田、木戸修、山崎らとの日本人対決を軸に壮絶な試合を行ない、「UWFはプロレスではなくシューティング」自分達を「シューター」と称した。公式ルールの制定にも着手するが、スポーツライクな、競技としてのシューティングを確立しようとする佐山と他の選手との間には徐々に溝ができていた。そして1985年9月2日。大阪府立臨海スポーツセンターで行われた試合で、特に不信を抱えていた前田からセメントを仕掛けられる。張り手や膝蹴りを多用し、グラウンドの佐山にローキックをする等、前田の尋常ならざるファイト、精神状態を懸念した佐山が、腹部に入った右膝を金的アピールしてレフェリーに試合を止めさせた(結果は18分57秒スーパー・タイガーの反則勝ち)。これがきっかけとなって、佐山は10月11日にUWF脱退を表明。看板選手を失った団体は活動休止に追い込まれ、佐山以外の選手は新日本プロレスと業務提携することになる。

前田との関係はまだ完全ではないも、2006年に真樹日佐夫の仲介で行われた、週刊文春での前田との対談で一定の修復はなされ、その後は電話で話すなど仲直りしている 。

1985年12月、佐山はシーザー武志と共にシュートボクシングの大会に出席し、翌年からのアマチュア格闘技大会開催を予告。スーパータイガージムでの指導をベースとした競技としての格闘技「シューティング(現・修斗)」の普及活動に励み、協会設立やプロ化を実現。1996年には修斗の運営から身を引いた。

UWF離脱直後にはプロレス界の実情を暴露した『ケーフェイ』を出版し、プロレス活動から距離を置いた(ジャパン女子プロレスの興行で挨拶をしたことは何度かある)。その後は総合格闘技界とプロレス界では異なる立場を取りながらも、双方に関わる活動となる。

1994年5月1日、当時新日本プロレスの取締役だった永島勝司に要請され、10年ぶりの新日本登場、4年ぶりの試合となる獣神サンダー・ライガーとのエキシビションマッチに参加した。試合中、佐山は挑発的な笑顔を浮かべていた。これは試合がエキシビションのため「適当にやろう」と思ったかららしい。翌年、初代タイガーマスクに名を戻して本格的にプロレスに復帰し、UWFインターナショナル、みちのくプロレス、東京プロレス、SAプロレス等に参戦した。1997年にはタイガーキングに改名し、新日本東京ドーム大会でアントニオ猪木と対戦する。

1998年、アントニオ猪木が創設したUFOに猪木事務所取締役の肩書きで参加する。小川直也を指導し、岡田孝(現・三州ツバ吉)からの推薦により村上和成の参戦を認めた。1999年1月4日、伝説となる小川直也対橋本真也のシュートマッチ、いわゆる「1.4事変」の仕掛け人の一人となる。余談だが、この時佐山は松葉杖をついてセコンドに就いているが、これは1週間前にアレクサンダー大塚戦で負傷したからである。その後、4月に猪木と団体方針の食い違いがきっかけとなりUFOを離脱した。

その年の5月に掣圏真陰流設立、再びプロレスから離れる。もう復帰は無いと思われたが、2003年9月21日、掣圏道の大会である「掣圏」において、ザ・マスク・オブ・タイガーの名でまたも復帰(対戦相手はザ・グレート・サスケ)。その後、再び初代タイガーマスクに名を戻し、dragondoor等に参戦。WJプロレスでは初めて長州力と対戦した。2005年6月9日には、「ストロングスタイルプロレス復興」を掲げ「リアルジャパンプロレス」を旗揚げした。

2008年3月13日にはリアルジャパンマットで、天龍源一郎との初対決がタッグマッチで実現。12月には、これまで試合での接点が全くなかった(1988年4月2日、両国国技館で行われた「格闘技の祭典」で、当時シューティングのエキシビションを行った佐山を激励する形で一緒のリングに上がったことはあったが)二代目タイガーこと三沢光晴との初対決がやはりタッグマッチで行われた。

2010年10月20日、藤波辰爾、長州力と共に新イベント「レジェンド・ザ・プロレスリング」を2011年1月10日に後楽園ホールで旗揚げすることを発表した。

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