会田有志の出身高校

会田有志 プロ野球選手

会田有志卒業高校
佐野日本大学高校 偏差値 栃木県高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
325位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1984年1月30日生まれ

会田 有志(あいだ ゆうし、1984年1月30日 - )は、埼玉県春日部市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。

現在は読売ジャイアンツ(以下、巨人)でトレーニングコーチを務める。

父親は元ヤクルトスワローズ投手の会田照夫。母は元モデルでCMや雑誌などで活動していた。兄が二人おり、このうち長兄はソシエテジェネラル証券会社チーフエコノミストの会田卓司(2013年日経ランキング3位)。次男が元警視庁、叔父は元ヤクルト捕手の尾崎亀重。従兄弟は現在タレントで元大相撲力士関脇隆乃若の尾崎勇気。

実家は木材店を経営。父の照夫が引退後、家業を継いでいた。 小学校3年生の時、日本テレビ系で放映されていた『ルックルックこんにちは』内の人気コーナー「突撃!隣の晩ごはん」に出演したことがある。その時、会田は「プロ野球選手になって、勝ちたい」と宣言していた。 春日部シニアでは3番手投手として控え投手。

佐野日本大学高等学校3年生時に松本監督から「お父さん(照夫)みたいに投げないか」と勧められ、オーバースローからアンダースローに転向する。 3年夏に甲子園に出場する。1回戦の長崎県立波佐見高等学校を相手に6回1失点と好投をする。2回戦で大分県明豊高等学校戦に先発をし7回2失点と好投するが、救援が逆転され敗れる。

その後中央大学(文学部教育学科心理学専攻)に進学し野球部(東都大学野球連盟加盟)へ入部。1年目に部活ばかりで単位を1しか取っておらず、そこから2 - 4年で猛勉強をして卒業したとされる。春日部市成人式では、成人代表として抱負を述べ、「昔から夢だったプロ野球選手になりたい」と将来の夢を宣言した。

大学では、スピードを付けるため、サイドスローに転向。父親と同じ背番号12を付け、通算45試合に登板し、11勝13敗、防御率2.11、112奪三振。3年春には5勝、秋のリーグ戦では4勝を挙げ、チームの25年ぶり24度目の優勝に貢献、最優秀投手賞に輝いた。日米大学野球選手権大会、世界大学野球選手権大会の日本代表にも選ばれ、銀メダルに貢献している。

2005年の大学・社会人ドラフト会議で巨人から7巡目指名を受け、入団した。中央大学からは2004年の亀井義行、2005年の会田と、巨人に2年連続で指名されており、大学の先輩には阿部慎之助、後輩には澤村拓一がいる(澤村は高校、大学でも会田の後輩である)。

2006年秋季キャンプで尾花高夫投手総合コーチにサイドスローからアンダースロー転向を提案される。「下手投げで自分の特長が出せるようになってきたので、どんどん投げて実戦の感覚を磨いて頑張りたい」とコメントした。中央大学の先輩で正捕手の阿部からは、「シュートを覚え、投球術が身につけば、一軍でも活躍できる」と評価されていた。シーズン終わりに工藤公康と山口鉄也とアメリカ合衆国のアリゾナ州に自主トレを行ったところ、ニューヨーク・ヤンキースの王建民がトレーニング施設に偶然居合わせていて「高速シンカー」の投げ方を教えてもらうという幸運に恵まれた。年配ファンから参考にと小林繁や山田久志ら球史に名を残した往年のアンダースローの名投手のDVDが添えられたファンレターが届くこともあったという。本人もキャンプ中から千葉ロッテマリーンズの渡辺俊介の著書『アンダースロー論』を「バイブル」として肌身離さず所持していた。

2007年春季キャンプで一軍スタート組に抜擢され、キャンプにおける紅白戦やオープン戦でも12回・被安打6・与四死球1・失点1と安定した好投を続け、原辰徳監督らからも高い評価を受け開幕一軍スタートとなった。4月1日の対横浜戦で一軍初登板を果たし、史上初の親子での一軍登板を成し遂げた。4月26日の対横浜戦では1点リードされた8回に登板、満塁のピンチを招くも凌ぎ切り、直後に打線が逆転し逃げ切ったため、史上初の一軍での親子勝利を挙げた。前半戦においては一軍一年目にもかかわらず勝ちパターンの継投に組み込まれ、開幕から12試合で1失点と、林昌範と共に非常に安定した投球を見せた。前半戦終了時点でチーム2位の10ホールドを挙げた。投手総合コーチの尾花に前半戦のMVPと評される。しかし徐々に成績が悪化し、防御率が3点台を記録したところで登録抹消された。11月のインタビューで、「(本人曰く)腕だけ下げた誰でもできるアンダースロー」から肩痛を発症、登録抹消につながったことを発表した。同シーズンは上原浩治がクローザーとして固定されたことで、林昌範とともに豊田清がセットアッパーとして安定、勝ちパターンの継投に組み込まれた会田との4人組をTAHU(Toyoda-Aida-Hayashi-Uehara)とスポーツ報知が命名した。

2008年はアメリカ合衆国・メジャーリーグのボストン・レッドソックスとのオープン戦で1回0安打1奪三振と抑え、解説者の長谷川滋利から「こんな綺麗なアンダースローはメジャーにいない。メジャーでもおもしろい」と評価される。一軍で3試合登板し防御率1.80で二軍でも24試合に登板し防御率2.52と好投したが、一軍はわずか3試合の登板と登板機会に恵まれずシーズンを終えた。ドミニカ共和国・ウィンターリーグに参加。サントドミンゴ・エスコヒードライオンズに所属する。セットアッパーとして公式戦に9試合登板した。

2009年は二軍でチーム最多の38試合に登板して1勝0敗・防御率3.92の成績を残したが、2009年11月8日に現役引退を表明。シーズンオフに行われたファン感謝デーの引退セレモニーでは「自分に携ってくれたすべての人に感謝します。」と語った。

2010年からは25歳の若さでコーチ(二軍トレーニングコーチ補佐)に就任することになり、2012年からはトレーニングコーチに就任することとなった。

サイドスロー時代の球速は、潮崎哲也や高津臣吾のような「アンダー気味のサイドスロー」からコンスタントに140km/h台前半をマークしMAX147kmを計測をしていたが、アンダースローに転向後は130km/h台後半のストレートと110km/hから120km/h台のシンカーを使った投球で打者を抑えていた。

山田久志は「やや変則的なアンダースローから、シュートが来るため打ちにくかった」と分析している。

2008年からはアンダースローから独特なカーブを取得し、巨人軍の選手の中では腕を振ってもボールがこないことから3Dカーブと呼ばれていた。

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