中野正剛の出身高校

中野正剛 ジャーナリスト

中野正剛卒業高校
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生年月日
1886年(明治19年)2月12日生まれ

中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は日本のジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。

旧福岡藩士・中野泰次郎とトラの長男として、福岡県福岡市西湊町(現・中央区荒戸)の伯父・中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。中野家は代々福岡藩の御船方であり、父・泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で質屋を家業としていた。母・トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女。

福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学し、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛と改名する。1905年(明治38年)、修猷館を卒業後、早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。

修猷館で緒方竹虎と出会い、以後、早稲田大学・東京朝日新聞社でも行動を共にした。大学時代、下宿を一緒にしていた時期もあった。

学費や生活費を稼ぐために、三宅雪嶺の『日本及日本人』に寄稿した。そして、このことが縁となって、玄洋社を主宰する右翼の頭山満と知り合う。頭山満の玄洋社思想と、大連で活躍する金子雪斎(アジアのための青年育成を心がけていた)のアジア思想は、中野を支えて行く事になる。

1909年(明治42年)早大を卒業し、同級生だった風見章とともに、東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社し、次いで朝日新聞に移る。朝日新聞には、「戎蛮馬」のペンネームで「朝野の政治家」「明治民権史論」などの政治評論を連載し、政治ジャーナリストとして高い評価を得た。

この間、1913年(大正2年)に三宅雪嶺の娘・多美子と結婚している。仲人は、頭山満と古島一雄であった。

1916年(大正5年)に朝日新聞を退職し、東方時論社に移って社長兼主筆に就任。

東方時論社に移った翌年の1917年(大正6年)、衆議院議員総選挙に立候補するも、落選(立候補した選挙区の当選者は松永安左エ門)。

しかし、日本外交を批判的に論考した『講和会議を目撃して』がベストセラーとなり、勢いをつけ、1920年(大正9年)の総選挙で当選する。以後、8回当選。当初は無所属倶楽部を結成するが、1922年(大正11年)に革新倶楽部結成に動く。その後も憲政会・立憲民政党と政党を渡り歩いた。

民政党時代は、党遊説部長として、永井柳太郎と臨時軍事費問題や張作霖爆殺事件を田中義一内閣に迫り、反軍派政党人として名を馳せた。また、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、三木武吉の後任の大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任した。

挙国一致内閣を提唱していた親軍派の安達謙蔵と民政党を脱党、国民同盟を結成。さらに1936年(昭和11年)には、東則正と東方会を結成し自ら総裁となった。この頃から反軍派的思想より離れ、強力な全体主義的思想を主張するようになる。

1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラーと会見、国際政治の動向について話し合う。 秘書として中野に随行した進藤一馬(後の衆議院議員、福岡市長)はムッソリーニを「非常に気さくで体格のいい親しみのあるおじさんといったタイプだ」と言い、ヒトラーは「物静かで知性的な態度であった」と回顧している。 当時の中野自身、国民に圧倒的な支持を受ける両者を偉大な政治家だと認識していたが独ソ開戦後は評価を変えている。(四男・泰雄談)

ヒトラー崇拝者といわれる中野だが、フランスのジョルジュ・クレマンソーやイギリスのウィンストン・チャーチルを敬愛していたことはあまり知られていない。福岡市の玄洋社記念館に中野がクレマンソーを称える絵画が収蔵されている。

1939年(昭和14年)には、議会政治否定・政党解消を主張し、衆議院議員をいったん辞職する(まもなく衆議院に当選復帰)。南進論・日独伊三国同盟を支持し、撃栄東亜民族会議を主催した。

1940年(昭和15年)、大政翼賛会総務に就任。1941年(昭和16年)に太平洋戦争開戦時、東方会本部で万歳三唱するが長期化する戦局に懸念を抱くようになる。

首相・東條英機が独裁色を強めるとこれに激しく反発するようになる。1942年(昭和17年)に大政翼賛会を権力強化に反対するために脱会している。同年の翼賛選挙に際しても、自ら非推薦候補を選び、東条首相に反抗した。東方会は候補者46人中、当選者は中野のほか、本領信治郎(早大教授)、三田村武夫たち7人だけであった。それでも翼賛政治会に入ることを頑強に拒み、最終的には星野直樹の説得でようやく政治会に入ることを了承した。

そして、同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を行った。

諸君は、由緒あり、歴史ある早稲田の大学生である。便乗はよしなさい。歴史の動向と取り組みなさい。天下一人を以て興る。諸君みな一人を以て興ろうではないか。日本は革新せられなければならぬ。日本の巨船は怒涛の中にただよっている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目覚めよ。天下一人を以て興れ、これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である。

この正剛の呼びかけに、学生たちは起立し、校歌「都の西北」を合唱してこたえた。演説会場には東條の命を受けた憲兵隊が多数おり、中野の演説を途中静止しようと計画していたが、中野の雄弁と聴衆の興奮熱気はあまりにすさまじく、静止どころではなくなってしまった。当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。このエピソードにみられるように、中野は近代日本の政治家には珍しい雄弁家の資質をもった人物であった。

中野の反東條の動きはますます高まり、1943年(昭和18年)正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表し、名指しこそしなかったものの、「難局日本の名宰相は、絶対強くなければならぬ。幸い、日本には尊い皇室がおられるので、多少の無能力な宰相でも務まるようにできているのである」と東條内閣を痛烈に批判した。この記事の内容に東條は激怒し、朝日新聞に対して記事の差し止めを命じた。しかし東條は中野のこの論文が記事になってから読んだのであり、この差し止め命令はまったく意味のないものであった。

同年3月、第81帝国議会で戦時刑事特別法の審査をめぐって、6月、第82帝国議会で企業整備法案審議をめぐりそれぞれ政府原案に反対した。議会内では鳩山一郎、三木武吉らに呼びかけ、議会で東條内閣に対する批判を展開するが、東條側の切り崩し工作によって両法案反対運動は頓挫する。

議会での反東條の運動に限界を感じた中野は近衛文麿や岡田啓介たち「重臣グループ」と連携をとり、松前重義や三田村武夫らと共に東條内閣の打倒に動きはじめた(松前はこのため報復の懲罰召集を受けてしまう)。こうして中野を中心にして、重臣会議の場に東條を呼び出し、戦局不利を理由に東條を退陣させて宇垣一成を後任首相に立てようとする計画が進行し宇垣の了解も取り付け、東條を重臣会議に呼び出すところまで計画が進行したが、この重臣会議は一部の重臣が腰砕けになってしまい失敗に終わる。

ただし、こうした中野の反東條の動きは、早期和平のための内閣を目指したものではなく、東條に代わる内閣によって戦時体制の立て直しを目指したものであったことに注意を払う必要がある。

そののち、中野は東久邇宮稔彦王を首班とする内閣の誕生を画策する戦術に切替えたが、東條の側の打つ手は中野の予想以上に早く、まず1943年(昭和18年)9月6日、三田村武夫が警視庁特高部に逮捕される。警視庁は10月21日に中野をはじめとする東方同志会(東方会が改称)他3団体の幹部百数十名を検挙した。中野の逮捕は、中野がある青年に「日本はかならず負ける」といったという風説に基づくもので、東條は大いに溜飲を下げたが、この中野の逮捕は強引すぎるものとして世評の反発を買うことになった。友人の徳富蘇峰や鳩山一郎は中野釈放を各方面に主張、東條に呼び出されて中野の起訴を指示された検事総長・松阪広政は「こんな証拠ではとても起訴はできない。大体、総理、あなたは中野のことになると感情的になりすぎる」と東條に反論して喧嘩になるありさまだった。検察・警察側としては、中野ほどの大物になると拷問などの強引な取調べは出来なかった。

さらに「起訴が無理で釈放せざるを得ないなら中野の議会出席を停止させよ」と東條に指示された国務相の大麻唯男までもが(大麻は東條のイエスマンとして議会統制をおこなっていた)「そのようなことは憲法上の立法府の独立を侵害しかねないのでできません」と東條に反論、東條は打つ手がなくなってしまった。結局、中野は嫌疑不十分で10月25日に釈放される。その後、東條の直接指令を受けた憲兵隊によって自宅監視状態におかれ、その後の議会欠席を約束させられたという説がある(戸川猪佐武『東條内閣と軍部独裁』講談社)。

そして同年10月27日自宅1階の書斎で割腹自決、隣室には見張りの憲兵2名が休んでいた。自決の理由はいまだに不明で、一説には、徴兵されていた息子の「安全」との交換条件だったとも言われている。また自身がおこなった東久邇宮の首相担ぎ出し工作について、東條サイドに調査攻撃されることにより、皇族に累が及ぶことを懸念していたからだいう説もある。自刃する直前に中野はムッソリーニやヒトラーからもらった額をはずし、机上に楠木正成の像と『大西郷伝』を置いたと伝えられている。自決の数時間前、四男泰雄に「千里の目を窮めんと欲し更に上る一層の楼」と色紙に書き、憲兵の目の前で渡している。これらのエピソードは、中野が最後には、狂騒的な全体主義思想から完全に離れたことを示しているといえよう。遺書には「俺は日本を見ながら成仏する。悲しんでくださるな」と書き残されていた。

緒方竹虎は、「いったん思い込むと、憑かれたようになる」と評し、清瀬一郎も「いつも、オードブルだけ食べて、まずいと思えば、すぐに出て行ってしまう。決してデザートの時間まで席にいない」と同様に評した。また、自宅では数人の学生達を起居させ、食事や学費の面倒をみていた。書生の一人、長谷川峻(後の労働相・運輸相)に、庭のスズメの群れを見て「あのスズメに茶碗のご飯粒を分けてやっても大した事は無い、しかしスズメは腹を満たし大空に飛んでゆく。君達もここから思い切り飛びたて」と話した心温まるエピソードが残っている。

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