三輪田勝利の出身高校

三輪田勝利 プロ野球選手

三輪田勝利卒業高校
中京大学附属中京高校 偏差値 愛知県高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
1123位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1945年7月11日生まれ

現役引退後にスカウトとして、イチロー、山口和男を発掘した人物として知られる。

1945年に愛知県で生まれる。中京商では2年生の時、1962年の春夏の甲子園に林俊彦の控え投手として出場、いずれも準決勝で敗退する。夏の大会の準々決勝では初めてリリーフとして登板している。翌年の夏の甲子園では主戦投手として3回戦に進むが横浜に敗れる。この大会では1回戦で、後に大学で同期となる津久見の高橋直樹投手に投げ勝っている。高校の同期に高井諭、下村栄二がいた。

卒業後は早稲田大学第二商学部商学科に進学。東京六大学リーグでは在学中に3度の優勝を経験。1965年にはマニラで開催された第6回アジア野球選手権大会(東京六大学選抜チームが日本代表)に出場、日本の優勝に貢献している。リーグ通算45試合登板で23勝9敗、防御率1.66、144奪三振。1966年秋季リーグでベストナインを受賞した。早稲田大学時代のチームメイトには、球界関係者で八木沢荘六、高橋直樹など、球界外でも毎日新聞社の六車護がいる。

1967年のドラフト会議において、近鉄バファローズから1位で指名されるが、入団を拒否して大昭和製紙に入社した。

大昭和製紙でもエースとして活躍し、1968年、1969年の都市対抗野球大会に連続出場。1969年には準決勝まで進んだが、富士重工業の石幡信弘との投手戦となり、0-1で惜敗した。1969年のドラフト会議において、阪急ブレーブスに1位で指名され、入団。背番号は19。

1970年にプロ初勝利を挙げ、防御率2.48の成績を記録する。1971年にはウエスタン・リーグで最多勝を獲得するが、一軍では層の厚い投手陣に割って入ることが出来ず、1973年に現役引退を発表。初登板から引退まで、一度も敗戦投手にならなかった。

現役引退後、上田利治から「誠意のかたまり」と評されたことでスカウトへ転身した。三輪田の人柄の良さは阪急関係者の他に他球団の球界関係者も認めていた。

1979年に阪急ブレーブスの二軍投手コーチに就任するが、1980年にコーチを辞任、翌年からスカウトに復帰することを発表した。1991年には、鈴木一朗(愛知工業大学名電高等学校)や山口和男(三菱自動車岡崎硬式野球部)を発掘した。1997年には編成部長に就任した。

1998年のドラフト会議において、オリックス・ブルーウェーブは新垣渚(沖縄県立沖縄水産高等学校)を1位指名したが、福岡ダイエーホークスと重複し、抽選で交渉権を獲得した。ところが、新垣は「ダイエー以外だったら(九州共立大学へ)進学する」と発言し、オリックスへの入団拒否を表明した。三輪田は球団上層部に「新垣宅へ行ったものの(面会を)断られた」と報告したが、上層部は三輪田を厳しく叱責した。新垣側と球団の板挟みになった三輪田は心身ともに追い込まれ、1998年11月27日に那覇市内で投身自殺した。享年53。遺書は発見されなかったが、遺体発見現場の状況や経緯から三輪田の死は自殺と断定され、1999年に労働災害が認められた。

この事件を週刊誌が数多く記事にし、その中には「ドラフト指名選手や関係者への口利きをする」などと自称する代理人の存在や、ドラフト指名選手・関係者への口利きを口実にした詐欺行為の存在なども噂として書かれ、三輪田はこれに騙されたのではないかとする報道も見られた。各関係方面からの調査も行われたが、真相は定かではない。

当時、オリックス球団社長だった井箟重慶は、三輪田の自殺を受けての記者会見で「球団に責任があったとは思っていない」と発言したことで非難を浴びたほか、三輪田を門前払いした新垣本人や新垣の家族、学校関係者にも批判が続出した。

新垣は三輪田の死後、球団本部長の矢野清と面会した。自らがオリックス入団を拒否し、面会を拒否したことで三輪田が自ら命を絶ったことに責任を感じ、「(野球を辞めるべきか)悩んだ時期もあった」という。また、三輪田夫人から「(三輪田の死は)あなた(新垣)のせいではない。これからも頑張って」と激励された。新垣は大学時代の「JNN報道特集」(TBSテレビ)のインタビューで、「自分が活躍することが、最初に評価してくれた三輪田さんへの恩返し」と語った。

イチローは幼少期より地元の中日ドラゴンズ入団を熱望していたが、当時中日の監督だった星野仙一が獲得に消極的だったことや、三輪田の誠意・説得もありオリックス入団を決めた。生前、両者は上下関係を弁えた上で互いの家族を交えたプライベートの交流もあった。三輪田の自殺を知ったイチローは涙し、告別式では三輪田の棺に自身愛用のバットを納め、渡米後も帰国時には三輪田家の墓参りを欠かさない。

1999年にオリックスに入団した山口和男は、活躍する度に、生前のスカウト活動の恩義から「今の自分があるのは三輪田さんのおかげ」と発言している。三輪田の死後も、イチロー・山口らは遺族と交流を続けている。

金村義明も三輪田に敬意を持っていた。金村は三輪田について「高3の時、三輪田さんは我が家にもスカウトとして挨拶にいらしたんです。三輪田さんは物腰・言動の、良い意味で柔軟・温厚な『紳士』でした。近鉄・阪急の指名競合による勝者が近鉄となった後に面会した際、『近鉄で頑張れ』と温かい言葉をかけて応援して頂いたことは忘れません」と語っている。

当時広島東洋カープのスカウトだった宮本洋二郎が、地元出身の大型内野手の二岡智宏をドラフトで逃した際、偶然三輪田が自殺した年であったため、宮本の妻はどこへ行くときも夫に付き添ったというエピソードがある。

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