一言多十の出身高校

一言多十 プロ野球選手

一言多十卒業高校
島田商業高校 偏差値 静岡県高校偏差値ランキング
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2858位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1921年5月1日生まれ

一言 多十(ひとこと たじゅう、1921年5月1日 - 2010年4月16日)は、静岡県六合村(現・島田市)出身のプロ野球選手(投手、外野手)。

島田商業学校時代、1937年春・夏、1938年春は外野手として、1939年春からはエースとして4季連続、計7回甲子園に出場。1940年夏準優勝。夏の大会では1939年の準決勝、1940年の決勝で2年続けて、嶋清一・真田重蔵のエースを擁した和歌山県の海草中学校の前に惜しくも涙をのんだ。1940年選抜では2回戦で対戦し勝利している。

1941年専修大学へ進学。五大学リーグでは1年春のリーグ戦からエースとしてノーヒットノーランを記録するなど活躍したが、1943年戦争のためリーグ戦が中止。学徒出陣した。1945年海軍特攻艇に配属されたものの出陣しないまま終戦を迎えた。

1946年、セネタースに入団。開幕投手を務めシーズン6勝を挙げる傍ら、野手としても規定打席到達という活躍を見せた。4月29日の対中部日本戦では当時日本プロ野球歴代2位の13与四死球を記録するものの、中部日本が無死満塁などの場面で1試合で4併殺するなど拙攻に助けられ、野手の失策の1失点にとどめて、自責点0で完投勝利をおさめており、最終的なスコアは6対1。当時、与四球の最も多い勝利投手であった。

1948年引退、社会人野球の新田建設に転じたが、1950年、阪急ブレーブスで1年だけプロ復帰している。

再度の引退後は社会人野球の石川島重工業にて選手、監督を務めた。2010年4月16日、埼玉県さいたま市で逝去。88歳。

宇佐美徹也著の「日本プロ野球記録大鑑」では「日本プロ野球5指に入る変わった名前の選手」として挙げられている。

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