荻野貴司の出身高校

荻野貴司 プロ野球選手

荻野貴司卒業高校
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プロ野球選手ランキング
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性別
男性
生年月日
1985年10月21日生まれ

荻野 貴司(おぎの たかし、1985年10月21日 - )は、千葉ロッテマリーンズに所属するプロ野球選手(外野手、内野手)。

奈良県高市郡明日香村出身。小学校4年生(1995年)の時に、「明日香フレッシュジュニアーズ」で野球を始める。中学時代は加治前竜一と共に橿原コンドルに在籍した。

郡山高では、高校2年夏(2002年)からレギュラーとなり、3年夏(2003年)の奈良大会準優勝。

関西学院大学(同期に宮西尚生)では、大学1年秋(2004年)から遊撃手のレギュラーとして活躍し、4年春(2007年)には17盗塁で23年ぶりとなるリーグ新記録を樹立した。最終的に、関西学生リーグ通算80試合出場し、295打数98安打、打率.332、3本塁打、35打点、47盗塁、ベストナイン5度受賞の記録を残す。

卒業直後の2008年にはトヨタ自動車へ入社、と同時に外野手に転向。オープン戦で1試合3本塁打を記録する。同年の第35回日本選手権で3番打者として出場、打率.409(長打率.682)の好成績でチームの連覇に貢献し、社会人ベストナイン外野手部門を受賞した。社会人2年目の夏(2009年)に左ひざ半月板を痛めるが、復帰後の都市対抗野球で活躍して、プロのスカウトの注目を集めた。

2009年度のプロ野球ドラフト会議では複数球団から上位指名候補としてリストアップされ、千葉ロッテマリーンズより単独1位指名を受ける。11月30日に契約金1億円プラス出来高5,000万円、年俸1,500万円(金額は推定)で契約。背番号は4に決まった。

2010年、春季キャンプから俊足をアピールし、球団では25年ぶりとなる新人外野手の開幕スタメン出場を果たす。開幕から46試合で25盗塁を記録し、3月26日の対北海道日本ハムファイターズ戦では逆転決勝弾となるプロ入り初本塁打を放つなどの活躍を見せた。しかし、5月21日の対東京ヤクルトスワローズ戦で二盗を試みてスライディングした際に右ひざを負傷した。精密検査の結果、全治2か月の右膝外側半月板損傷と診断された。同月26日に半月板の部分切除手術を受けたが、シーズン中の復帰は叶わなかった。オフの契約更改の席では西岡剛の移籍で空いた遊撃手へのコンバートについて「やってみたい気持ちがある。守れるなら守りたい」と前向きなコメントを残した。

2011年、内野手登録となり、2番・ショートとして開幕戦にスタメン出場。しかし、5月13日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で右ひざの違和感を訴え、17日に登録を抹消される。「去年の痛みとは全然違う。少し休めば大丈夫だと思う」と語ったが、25日に手術を受けた。オールスターゲーム後の復帰を目指し急ピッチで調整を続けたが、回復は思わしくなく8月25日にプロ入り後三度目となる右ひざの手術を受けた。また、この年は鉄道車両の行き先看板を模したグッズが発売された。表面には「快足荻野二塁(盗塁)」裏面には「特急荻野本塁(三塁経由)」と書かれている。

2012年、再び外野手登録となり、荻野も「外野一本でやりたい」と宣言する。前年の教訓から開幕よりまず完治を優先し、春季キャンプでも一軍から外れて別メニュー調整を行った。開幕は二軍で迎え、4月21日のイースタンリーグで約1年ぶりの実戦復帰を果たす。6月13日に一軍選手登録されると、同日の対広島東洋カープ戦の10回裏に代走として出場し二盗を決めた。翌日には復帰後初スタメンでシーズン初安打。8月1日の対日本ハム戦では2年ぶりの本塁打を記録した。8月17日の対日本ハム戦で2失策を記録し、同月20日に一軍登録抹消。二軍調整後、最短の10日間で一軍復帰。プロ入り後初めて怪我による離脱なくシーズン終了を迎えた。8月17日の日本ハム戦で4回に稲葉篤紀の打ったセンターフライを取り損ね、さらに、拾った球を誰もいない一塁へ悪送球するという珍事が起こった。日本ハムはこの日、黒の限定ユニフォームを着用していたため、札幌ドームだったがロッテはホーム用のユニフォームを着用していた。この日、解説だった岩本勉は「ビジターのユニフォームが似ていたため、一塁の三木コーチが味方の選手に見えたんじゃないかと思う。」と話している。また、8月19日に放送された『サンデーモーニング』でも張本勲が同様の発言をしている。ただし、荻野は「ファーストにいると思って投げたが、誰もいなかった。ユニフォームを間違えたわけではない。」とコメントしている。

2013年、腰痛で開幕一軍を逃したものの5月上旬に復帰し、自己最高の102試合に出場、盗塁数含めほぼすべてにおいてキャリアハイの成績を残した。

2014年5月6日の対オリックス・バファローズ戦において、西勇輝から史上初となる初回先頭打者初球ランニング本塁打を記録した[注釈 1]。6月22日の対中日ドラゴンズ戦で、本塁突入時に左肩関節窩を骨折。そのまま残りのシーズンを棒に振った。

バットを極端に短く持つがパンチ力もあり、またどのコースにも柔軟に対応する打撃を見せる。2011年までの通算で右投手は打率.323と得意とする一方、左投手は打率.253と苦手としていたが、2012年では右投手.214に対して左投手は.239、2013年シーズンでは右投手には.259に対して左投手には.329と左投手の方が高い打率を記録するようになっている。

50メートル走のタイムは荻野曰く6秒切るくらいと図抜けて速いわけではないが、トップスピードに乗るのが非常に早い。「20メートル直線を走らせたら、日本で一番」と評するスカウトもいたほどで、右打者にもかかわらず一塁への到達タイムは3.57秒とプロ有数のスピードを誇る。その走力を活かし、ライト前ヒットの当たりで二塁を陥れたり、無死満塁の状況で一塁から二塁へのタッチアップを決めたりするなど、抜け目のない走塁を見せる。盗塁成功率も良く、2010年には盗塁企図10以上の選手で両リーグ1位の.893を記録した。

スライディングの技術に難があり、ベース付近から飛び込むように滑っていたことで膝へ負担がかかり故障につながった。荻野もこのことは自覚しており、怪我から復帰後はよりベースの手前からスライディングすることを心掛けている。

大学まで遊撃手としてプレーしていたが、社会人時代に外野手に転向。プロ一年目は主に中堅手で起用されたが、翌2011年は遊撃手として出場した。荻野本人は右翼手が一番守りやすく、打球の判断がしやすいと語っている。大学時代までは内野での送球に不安を抱えていたが、外野手に転向したことで「思い切り腕を振れるロングスローの場面があるので、自分の長所を生かせるようになったと思います。僕のスローイングは外野からのバックホームのようなロングの送球が一番伸びると思うので」と荻野は語っている。2012年からは再び外野手としてプレーしている。

家族は祖母、父、母、兄、姉、妹の7人。4歳年上の兄・公一は早稲田大学競走部OBの毎日新聞記者である。

2014年10月に結婚し、同年12月に日本国外で挙式を行なった。

ロッテには2014年まで荻野忠寛が在籍していたため、ニックネームは「タカシ」、背ネームもT.OGINOと区別されていた(荻野忠寛は「OGINO」のまま)。同じく2010年にロッテに入団した清田育宏とは、年齢が同じことや外野手同士と言うことも有り、互いに連絡を取り合う仲である。

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