田坂和昭の出身高校

田坂和昭 サッカー選手

田坂和昭卒業高校
東海大学付属翔洋高校 偏差値 静岡県高校偏差値ランキング
サッカー選手ランキング
915位 / 1982人中 サッカー選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1971年8月3日生まれ

田坂 和昭(たさか かずあき、1971年8月3日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手で、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションは主にミッドフィールダー(MF)。

1994年、ベルマーレ平塚がJリーグに昇格した年に入団。初年度からディフェンシブハーフ(ボランチ)のポジションを前年不動のレギュラーであった松山広淳から奪い、開幕戦から出場。平塚競技場のこけら落としとなった第2節では渡辺卓と激突し、顔面を骨折してその後1ヶ月を棒に振ったものの、復帰後は中心選手として活躍した。1stステージは岩本輝雄、名良橋晃の超攻撃的両サイドバックのフォローに追い回されたが、NICOSシリーズは優勝争いを演じ、田坂自身はJリーグ新人王を獲得した。

以後、不動のボランチとして活躍、1995年には日本代表にも選ばれた。しかし当時の監督加茂周がストッパーとして起用、イングランド遠征ではロベルト・カルロスに一瞬で振り切られるなど、スピード面での課題が露呈した。

1998年、バブル崩壊で平塚の親会社であるフジタの経営が悪化し、当時高額契約の選手であった小島伸幸、呂比須ワグナー、名塚善寛、洪明甫と共に自由契約となった。

1999年、東海大の先輩である澤登正朗のいる清水エスパルスに移籍。チームはこの年2ndステージで初優勝を果たしたが、監督のスティーブ・ペリマンには冷遇され13試合の出場にとどまった。翌2000年にはセレッソ大阪に移籍し、主力選手として1stステージ優勝争いに貢献した。2002年シーズン終了後に現役を引退した。

引退後すぐに指導者へと転進、2003年にC大阪ユースコーチに就任すると翌2004年、C大阪ジュニアユースコーチ、この年の中頃からJ2降格目前のトップチームのコーチに就任しJ1残留に貢献した。2004年シーズン終了後にC大阪から残留を要請されるが、S級ライセンス取得と海外へのコーチ留学のために退団した。2005年にS級ライセンスを取得している。

2006年、清水のサテライトチーム監督に就任し、2007年シーズンからはトップチームのコーチも兼任し、岡崎慎司、本田拓也、大前元紀などを育てた。

2011年からはJ2の大分トリニータ監督に就任する。同クラブは降格や経営難もあって主力選手がほとんど流出し厳しい戦いが予想されていたが、田坂は選手の意識改革を進める一方で、選手の特徴に合わせたコンバートや、シーズン途中に4バックから3バックに変更するなどの大胆な采配を見せ、順位こそ12位に終わったものの、指導者としては一定の評価を得た。2012年は前年からの戦術の浸透や選手の成長もあって第23節に首位に立つなど躍進を見せ、その後やや負けが込んだ時期もあったが最終的には6位でJ1昇格プレーオフに進出。レギュレーションの関係でJ1に昇格するには準決勝、決勝に連勝する必要があったが準決勝の京都戦に4-0で、決勝の千葉戦に1-0で勝利し、クラブを4年ぶりのJ1復帰に導いた。しかし、監督として初のJ1となった2013年は開幕から低迷、第12節の新潟戦まで勝ち星を上げる事ができなかった。第8節で最下位に転落して以降は一度も順位を浮上させる事ができず10月5日の第28節・C大阪戦で6試合を残しJ2降格が決定した。リーグ戦ホーム未勝利、年間2勝、年間勝点14と歴代最低記録を多く記録するなど不名誉なシーズンとなったが田坂は翌年も続投となった。

2015年6月1日にチームの低迷の責任を取らされる形で監督を解任された。7月2日には古巣である清水エスパルスのヘッドコーチに5年振りに就任した。その後、大榎克己監督が8月1日に辞任した為、監督代行を務める事となり同月11日付で正式に監督に就任した。だが、成績不振のためか清水のJ2降格が決まると、11月19日を持って監督を辞任した。さらに、2015年6月まで、指揮を執っていた大分も、J3リーグ降格が決定した。

木村和司、森島寛晃を生んだ広島の少年サッカークラブ、広島大河フットボールクラブの出身。

学生時代は横浜フリューゲルス入りを決意していたが、当時のベルマーレ平塚の石井義信強化部長、古前田充監督、ニカノールヘッドコーチ、東海大学の先輩でベルマーレの前身であるフジタOBの上川徹、ユース代表時代からの親友である名良橋晃ら総動員でやんやの説得に遭い、半ば強引に平塚へ入団となった。「裏金は一切無かったですよ」とは田坂本人の談。

1994年の試合中、試合中の事故で眼窩部を骨折してしまい、防護用のフェイスマスクを着用して試合に臨み、その風貌から「ジェイソン」(映画『13日の金曜日』の登場人物)と呼ばれたことがあった。

田坂の代名詞ともいえるスキンヘッドは剃っているのではなく、先天性無毛症という遺伝性疾患によるもの。被爆3世で、祖父の被爆が原因では無いかと見られている。少年時代は広島東洋カープの全盛期で、田坂もカープの赤い帽子を常に被っていたが、前述の理由でどんな時も外で帽子を脱ぐことはなかった。

日本代表の合宿で京都に滞在した際、三浦知良の「金閣寺、行くぞ」という号令の下、田坂、北澤豪、中山雅史、藤田俊哉の5人で日本代表のジャージを着たまま電車に乗って行った。代表監督がフィリップ・トルシエになってからチームの雰囲気は変わり、「メシ喰ったら自分の部屋に帰ってゲームをするようになった」という。

清水エスパルス在籍時代に筋肉番付のキックターゲット2のコーナーで見事制覇し、賞金200万円を手にした。

その他の公式戦

※2015年は田坂の在任期間での成績

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