本多雄一の出身高校

本多雄一 プロ野球選手

本多雄一卒業高校
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プロ野球選手ランキング
325位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1984年11月19日生まれ

本多 雄一(ほんだ ゆういち、1984年11月19日 - )は、福岡県大野城市出身の福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(内野手)。

愛称はポン、ポンちゃんなど。

1984年11月19日に福岡県大野城市で生まれた。 佐賀女子高校で4番一塁手としてソフトボールで国体やインターハイに出場し、実業団でもプレーした母の影響で小学校1年生からODサンダースに入部してソフトボールを始め、監督の指示で左打者へ転向した。中学校時代は大野城ガッツに所属して硬式野球に転向し、主に遊撃手でプレーした。

高校は鹿児島実業高等学校に進学したが甲子園出場は果たせなかった。

社会人野球の三菱重工名古屋に進み、都市対抗野球大会に3度出場した。2005年4月の静岡大会では 最優秀新人賞を獲得し、同年の公式戦の盗塁成功率は100パーセントだった。

2005年11月18日に行われたドラフト会議の大学・社会人ドラフトで5巡指名を受け、11月26日に仮契約を結び、福岡ソフトバンクホークスに入団した。

評価は高く、松田宣浩と共にルーキーでの開幕スタメンが濃厚と思われていた。しかし3月8日の東京ヤクルトスワローズとのオープン戦で3回に石井一久の投球を左手首に受けそのまま負傷交代し、福岡市内の病院で検査の結果、打撲と診断された。その後もオープン戦に出場し、開幕スタメン候補となっていたが、3月21日に開幕二軍スタートが決定した。3月27日に福岡市内の病院で再検査を受けた結果、左手首の左三角骨骨折が判明し、開幕一軍は果たせなかった。6月15日のウエスタン・リーグ対中日ドラゴンズ戦で代走でのみ出場したが、再び二軍でも欠場が続いた。約1ヵ月後の7月11日に同じく二軍の対広島東洋カープ戦で1番二塁手として実戦復帰を果たし、翌日7月12日の同カードでは今井啓介から本塁打も記録した。7月22日の球宴期間に2日間一軍全体練習に参加したが昇格は見送られた。8月1日に福岡 Yahoo! JAPANドームで行われた二軍戦で活躍し、8試合で18打数7安打、打率.389、3盗塁という成績から8月4日に初めて出場選手登録された。同日の対千葉ロッテマリーンズ戦で8番二塁手で先発出場し、5回の第2打席に渡辺俊介のシンカーを打ち返して渡辺のグラブを弾き、内野安打でプロ初安打を記録、さらに渡辺-里崎智也バッテリーから二盗を決めてプロ初盗塁も記録した。翌日8月5日の同カードでは2試合目にしてマルチヒットを達成した 。8月17日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で牧野塁の速球を右翼席に運び、プロ入り初本塁打、初打点を記録した。8月24日にスカイマークスタジアムで行われた対オリックス・バファローズ戦の9回同点二死満塁の場面で守護神・馬原孝浩が塩崎真を詰まらせた打球が二塁本多の前に転がり捕球直前にイレギュラーして自身の股間を通過し、サヨナラ負けを喫した(記録は安打)。8月27日の対埼玉西武ライオンズ戦では西口文也からタイムリー二塁打を放ち、代打起用での初安打・初打点を記録した。8月30日の対千葉ロッテ戦で第1打席でプロ初の三塁打で先制、2打席目は安打で出塁して得点、4打席目は1点リードの9回にダメ押しのソロ本塁打で勝利を決定付け、プロ初の猛打賞を達成した。本間満と併用される形で二塁手として最終的に31試合に先発出場した。

プレーオフ第1ステージでは全3試合に出場した。10月7日の第1戦でポストシーズン初の先発出場を果たし、松坂大輔から初安打も記録した。10月9日第3戦は初めて6番打者として先発出場し、7回1点ビハインドの場面で同点に繋がる犠打を決めた。第2ステージでは11月11日第1試合でダルビッシュ有から四死球で2度出塁したが得点には繋がらなかった。

自身初の開幕スタメンを果たし、開幕から正二塁手に定着した。序盤の打順は9番だったが、川崎宗則の離脱で4月11日以降2番を打つことが多くなった。4月25日の対西武戦ではマルチ安打を記録し、相手捕手野田浩輔から自身初のマルチ盗塁を成功させた。6月27日時点ではリーグトップの17盗塁と好調だった。7月28日の対西武戦では3回にタイムリー二塁打で出塁し、許銘傑-細川亨バッテリーからプロ初の三盗を成功させた。7月28日から8月10日まで11試合連続安打を記録した。大村直之の左背筋痛により8月4日以降は1番打者に定着し、 8月22日の対西武戦ではプロ初の1試合4安打を記録した。9月24日の対北海道日本ハムファイターズ戦で内野安打を打った際に一塁手・稲田直人と接触して首を強打して打撲、右ひざも痛めた。最終的にレギュラーシーズンではチーム最多の141試合に出場し、139試合に先発出場した。打撃では猛打賞を12度記録し、走ってはチーム最多でリーグ2位の34盗塁、4度のマルチ盗塁を記録するなど走攻守に成長を見せ飛躍の年となった。

クライマックスシリーズ第1ステージでは全3試合に出場し、10月9日第2戦では先制点に繋がる犠打、2安打1打点の活躍で勝利に貢献した。10月10日第3戦では初回無死一塁の場面で犠打試みたが捕邪飛となり、流れを呼び込めずチームは完封負けを喫し、第1ステージ敗退となった。

1月の自主トレ期間中に右肩の違和感を訴え、春季キャンプは途中から別メニュー調整となった。二軍では指名打者などで調整し、滑り込みで開幕は一軍で迎えた。開幕戦は途中出場となったが安打を記録した。3月22日から2番二塁手としてスタメンに復帰し、開幕5試合連続安打で5連勝に貢献した。4月4日の対千葉ロッテ戦で右肩痛を再発し、福岡市内の病院での検査に異常は無かったが出場選手登録を抹消された。5月15日に一軍昇格すると、5月16日以降は1番打者に定着した。6月19日の対ヤクルト戦で館山昌平からプロ初の先頭打者本塁打を記録した。交流戦ではトップの11盗塁を記録し、6月22日の対読売ジャイアンツ戦ではセカンドゴロ野選で決勝点をもぎ取るなどチームの交流戦初優勝に貢献した。

6月27日に準本拠地である北九州市民球場で行われた対楽天戦では8回同点無死満塁のピンチで本塁封殺の好守、9回二死一三塁の場面では小山伸一郎からセンター前へプロ入り初のサヨナラタイムリー打を放った[49][50]。同年同球場で行われた全3試合で安打を記録し3戦3勝に貢献した。7月27日の対千葉ロッテ戦では同点で迎えた12回に荻野忠寛からレフト前にタイムリーを放ち2度目のサヨナラ打を記録し、チームを2位に浮上させた[51][52]。8月14日、8月20日に1試合4安打を記録、翌日8月21日の対西武戦では自身初の1試合5安打を記録した[53]。またこれにより新井宏昌打撃コーチの持つ球団タイ記録の8打数連続安打に並んだ[54][55][56]。9月2日の対日本ハム戦では6回に安打で出塁し、ダルビッシュ有のノーヒットノーランを阻止した[57]。チームが5連敗してクライマックスシリーズ進出が危ぶまれた9月17日の対オリックス戦では完封負け目前の9回に加藤大輔から右翼スタンド中段に逆転のスリーランホームランを放ち勝利に貢献した[58][59]。9月27日からは疲労による腰痛でレギュラーシーズンを全て欠場した[60][61]。最終的に規定打席に到達し、自己最高の打率.291を記録した[62][63]。

オープン戦から好調を維持し[64]、開幕を一軍で迎えた。4月5日の対オリックス戦の延長10回同点一死二塁の場面で川越英隆から前進守備のセンターを越えるサヨナラタイムリー二塁打を放った[65][66]。開幕から9試合連続安打で5試合マルチヒットなど好スタートを切った。5月2日の対千葉ロッテ戦の初回に唐川侑己から左すねに死球を受けて途中交代、福岡市内の病院で打撲と診断されたが[67]、4試合欠場し[68]、復帰後は調子を崩し打率.231まで下げた[69]。5月24日から11試合連続安打と徐々に調子を取り戻し、特に5月27日の対巨人戦では4安打と活躍した[70]。6月21日には自身2度目の先頭打者本塁打を記録した[71]。8月18日の対西武戦の一塁ベースカバーの際に犠打をしたヒラム・ボカチカと交錯して右足を痛め担架で運ばれ負傷交代し[72]、福岡市内の病院で右足大腿部の打撲と診断された[73]。8月22日から13試合連続安打など安定し[74]、9月3日の対オリックス戦では初回と5回に伊原正樹-前田大輔バッテリー、7回には香月良太-日高剛バッテリーから二盗を成功させ、自身初の1試合3盗塁を達成した[75][76]。レギュラーシーズンは137試合に正二塁手として先発出場し、自己最多となる43盗塁(チーム2位)を記録した[77]。

クライマックスシリーズファーストステージは全2試合に1番二塁手で先発出場し、第2試合では田中将大から2安打し唯一の得点を挙げた[78]。オフの12月中旬に持病であった左耳慢性中耳炎の手術を行った[79][80]。

開幕を一軍で迎えたが、3月26日の対オリックス戦のショートゴロからの併殺守備の際にグレッグ・ラロッカから強烈なスライディングを受け、左側頭部から地面に落下し軽い脳震盪を起こしたが[81]、翌日には復帰した[82]。開幕から1番打者だったが3月31日以降は2番打者に定着した[83]。4月8日の対千葉ロッテ戦では3回同点の場面で川越英隆から勝ち越しツーランホームランを放ち、これが本拠地・福岡 Yahoo! JAPANドーム初本塁打となった[84][85]。4月12日には打率.172という不振からスタメン落ちの話も出たが[83]、翌日4月13日に勝ち越し打[86]、4月16日からは4試合連続盗塁、4月21日に北九州で行われた対西武戦では1点リードで迎えた8回二死満塁の場面で星野智樹から走者一掃の3点タイムリースリーベースを放った[87][88]。さらに同日から9試合連続安打で打率.268まで回復した。5月15日の対ヤクルト戦8回の守備で宮本慎也の放ったライト前への当たりを背走からダイビングキャッチして上半身をグラウンドで強打したがボールは離さずアウトにし[89]、両軍のファン問わず神宮球場360度の拍手に包まれた。その好守もあり同試合は完封勝利となった[90]。しかし翌日5月16日の同カードではプロ入り2度目の1試合2失策を喫した[91]。なお猛打賞とマルチ盗塁と打では活躍し、自身の延長勝ち越し打により同試合は勝利した。5月22日の対広島戦では1試合3盗塁を記録した[92]。6月5日の対広島戦では自身2度目の1試合5安打を記録した[93]。8月28日に1996年村松有人以来球団8人目のシーズン50盗塁を達成した[94]。9月22日にライバルの西武・片岡易之が怪我により59盗塁で出場選手登録を抹消されると[95]、9月26日の対楽天戦で2つ二盗を決めて59盗塁として片岡に並び、盗塁王を獲得し、さらにフル出場により自身初のリーグ優勝をグラウンドで経験した[96][97]。最終的にレギュラーシーズンは自身初の全試合出場を果たした。前年の川崎宗則の記録を塗り替える球団記録の50犠打も達成した[98]。猛打賞は自己最多の16回、11試合でマルチ盗塁を記録した。

クライマックスシリーズファイナルステージは全6試合に2番二塁手として先発出場し、打率.250、4盗塁4得点を残した。10月15日第2試合では初回から足でプレッシャーをかけヘイデン・ペンから2盗塁し、3回には追加点をもぎ取った[99]。10月18日第5戦では8回2点ビハインドから安打で出塁し、ホセ・オーティズの二塁打で一塁から生還するなどチームを鼓舞した[100]。オフの12月6日の契約更改交渉で3,800万円アップの年俸1億1,000万円でサインした[101]。

開幕からレギュラーシーズン終了まで2番・二塁手で全試合にフルイニング出場した。なお、川崎宗則、松田宣浩も同時に達成し、1チーム3人の全試合フルイニング出場は2リーグ制以後、初の記録となった[102]。開幕から19試合連続安打と好スタートを切った[103][104]。4月23日には高校時代を過ごした鹿児島県立鴨池野球場で初出場し、2安打2盗塁と活躍した[105]。6月30日に選手間投票選抜としてオールスターゲームに初選出された[106][107]。7月10日は自己最長の6試合連続盗塁を達成した。7月22日からのオールスターには3試合全てに出場、7月22日第1戦で2番・二塁手として2安打、1打点を記録[108]、7月23日第2戦では代走で途中出場して1安打[109]、7月24日第3戦は初回に安打で出塁して先制の走者として生還した[110]。7月26日には球団では1997年の村松有人以来の3年連続30盗塁を達成した[111]。7月31日には通算200盗塁を達成した[112]。8月19日の対楽天戦では初回に球団が福岡移転後初の3年連続40盗塁 を達成したが[113]、8回の守備で代走の横川史学と交錯し、右足親指の爪をはがす怪我を負った。9月5日の2位・日本ハムとの首位攻防戦では決勝打を含む3安打の活躍で、シーズン最多タイとなる5ゲーム差と突き放した[114]。9月21日に1956年南海ホークス・森下整鎮以来球団史上4人目、福岡移転後初となる2年連続50盗塁を達成した[115]。9月23日には球団史上で1964年以来47年ぶりのチーム150盗塁越えに貢献した[116]。10月18日の対オリックス戦の初回に金子千尋-鈴木郁洋バッテリーから二盗を成功し、自己最多となるシーズン60盗塁を達成した[117]。これはパ・リーグでは1997年西武・松井稼頭央、球団では1973年・南海・島野育夫以来となった。二塁手としては1983年・大石大二郎と並ぶパ・リーグ最多タイ記録である[118]。 レギュラーシーズンは自己最高の打率.305と初めて3割で終え[119]、盗塁は2位の楽天・聖澤諒に8個差をつけ2年連続の盗塁王を単独で獲得した[120]。さらに二塁手としてはベストナイン[120]、三井ゴールデングラブ賞ともに初受賞した[121][122]。また、リーグトップ・自己最多の53犠打を記録した。

クライマックスシリーズファイナルステージは全3試合に2番・二塁手としてフル出場した。11月4日第2戦では初回に先制点に繋がる犠打、6回には二塁打で出塁し、同点の打者として生還した[123]。

日本シリーズも2番・二塁手として全7試合にフル出場した。11月13日第2戦では吉見一起からシリーズ初安打を記録した。11月17日第5戦では初回に先制決勝点に繋がる犠打を決めた[124]。11月20日第7戦は自身初のチームの日本一をグラウンドで向かえた[125]。

アジアシリーズでは11月25日の対統一セブンイレブン・ライオンズ戦で初回に先制点に繋がる犠打を決め、3回には無死一二塁での犠打がフィルダースチョイスにより同点打となった[126]。11月29日のサムスン・ライオンズとの決勝戦では初回に四球で出塁して先制の走者として生還した[127]。ポストシーズンは14試合にフル出場し50打数9安打で打率.180、打点0だったが、守備では無失策で終えた。

オフの12月4日、同年11月に一般女性と結婚していたことを発表した[119][128]。12月6日に2012年度の選手会長就任が発表された[129]。12月24日の契約更改交渉で9000万円アップの年俸2億円(推定)でサインした[130]。12月24日には大野城市民スポーツ栄誉賞を受賞した[131]。

3月10日の東日本大震災復興支援ベースボールマッチに日本代表に選出され、1番・二塁手で先発出場した[132]。

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