本多勝一の出身高校

本多勝一 ジャーナリスト

本多勝一卒業高校
飯田高校 偏差値 長野県高校偏差値ランキング
ジャーナリストランキング
38位 / 60人中 ジャーナリスト別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1932年[1]1月28日生まれ

本多 勝一(ほんだ かついち、1932年1月28日 - )は、日本のジャーナリストである。

長野県下伊那郡大島村(現在の松川町)に生まれる。少年時代は自然に親しむ一方、漫画を描くことを趣味にしていた。第二次世界大戦中、日本軍が秘密兵器でアメリカ合衆国本土に上陸する漫画を描いていたが、その途中で日本が降伏してしまったという。手塚治虫を師と仰ぎ、手紙を出して返事を貰い、紙上で漫画の描き方を指導されたこともある。現在でも手塚作品を宮崎駿のアニメと並んで高く評価している。

1950年(昭和25年)3月、長野県飯田高等学校卒業。高校在学中は京都大学の木原均にあこがれて生物学を志すも結局進学できず1954年(昭和29年)3月に千葉大学薬学部を卒業し薬剤師免許取得後、1954年4月に京都大学に進学したとされる。この当時の事情について、インタビュー(著書「貧困なる精神」に収録)の中で本人が語るところによると、生物学と遺伝学の勉強をするため農学部への進学を希望していたが、父親が、経営する雑貨店で医薬品の調剤と販売をするため、理系に強かった息子に薬学部への進学と薬剤師の免許取得を強く希望した。このため父親と対立し、親の商売の都合により希望していない学部に進学するくらいなら大学に行かないと宣言した。その後、父親から、薬学部へ進み薬剤師免許取得をした後に好きな学部へさらに進学しても良いという妥協案が出され、これに従うことになった。そして千葉大卒業後に京都大に入学。京都大学では山岳部に所属し、のち探検部の創設にかかわったとされている。探検部時代にヒマラヤ山脈からヒンドゥークシュ山脈奥地にかけての合同調査隊に加わり、その体験をまとめて初の著書となる『知られざるヒマラヤ 奥ヒンズークシ探検記』を刊行した(1958年、角川書店)。京大探検部を朝日新聞社が援助したところから朝日新聞と縁が生じ、同年10月朝日新聞東京本社校閲部に研修生(校閲見習い)として途中入社。このため京都大学のほうは卒業していないらしいとも言われている。推薦人は朝日新聞社主上野精一だった。同期に筑紫哲也がいる。

1959年(昭和34年)から1962年(昭和37年)まで朝日新聞北海道支社に勤務した後東京本社に転じ、短期間とはいえ現地で実際に生活を共にした上で取材した人類学系の探検ルポ三部作『極限の民族』(『カナダ=エスキモー』、『ニューギニア高地人』、『アラビア遊牧民』)により全国的に高い評価を得た。このうち、『カナダ=エスキモー』の報道については、文藝春秋から第12回菊池寛賞を(藤木高嶺カメラマンとともに)受賞している。この時期の専門分野は自然や探検を主題とする文化人類学的なルポルタージュであり、北海道支社時代の記事をまとめた『きたぐにの動物たち』もその一つである。

本多はスター記者としての高い評価を背景に、日本の一般市民にとってアクセスが困難という意味では探検の要素をもつものの、実質的な面においては社会派報道となる分野へと進出した。その最初のものとなるのが1967年(昭和42年)5月から11月にかけて朝日新聞の朝夕刊に6部に分けて連載されたベトナム戦争ルポ「戦争と民衆」であった。この連載はその後1968年(昭和43年)に『戦場の村-ベトナム-戦争と民衆』としてまとめられて刊行され、同年の毎日出版文化賞を受賞している。この路線の延長で特に有名なのは、中国で取材した旧日本軍についての連載記事(その中の1章が南京事件についての記事)を再編集した『中国の旅』で、これは連載当時から大きな反響を呼んだが、これ以後、本多への評価は極端に分かれていくことになった。

日本語に対する関心も深く、『日本語の作文技術』『実戦・日本語の作文技術』では、読点の打ち方や一つの被修飾部に複数の修飾部を必要とする場合の並べ方といった、分かりやすい日本語を書くための文章の書き方を明確にルールとして提唱している。また、独自の観点からアメリカ合衆国を「アメリカ合州国」と呼ぶこと、また第二次世界大戦後占領軍によって強制され定着した方法から日本語として合理的な、桁数の多い数字の4桁区切り表記へ戻ることを主張している。

また、日本において標準語が偏重され方言が軽んじられていることを批判している。一方で、普通語(標準語)以外の地方語が徹底的に弾圧されていた文化大革命期の中国を「共通語と方言(または少数民族言語)との間に階級差別のない関係」を実現したとして賞賛する発言も残している。

なお、本多は大江健三郎の辛辣な批判者として知られるが、その文章にも厳しい批判を加え、「悪文」の典型として指弾している。

スポーツでは野球嫌いで知られている。朝日新聞社では新人は必ずやらされるという高校野球の取材も、「野球は嫌いだ。甲子園(夏の大会、春のセンバツ)は愚劣だ」と言い続けたため、ついにその機会は無かったという。新渡戸稲造の『野球と其害毒』(『東京朝日新聞』連載)の後を承け、『貧困なる精神』のすずさわ書店版第21集は『新版「野球とその害毒」』のサブタイトルで、野球害毒論を説いた。また、本多は野球の守備位置による運動量の差(投手が圧倒的に多い)などを挙げ、「野球は二流スポーツ」と断じている。また、高校野球の過密スケジュールによる選手の酷使についても取り上げている。

プロ野球も嫌悪しており、特に江川事件などを理由にアンチ巨人、親会社(コクド)を理由にアンチ西武である。また、広島ファンの筑紫哲也が巨人の金満補強を嘆いて『週刊金曜日』に「野球自体への興味が薄れつつある」と書くと、本多は「結構なことだなあ。巨人がもっともっと大選手をかき集めて、毎年ひとり勝ちになって、巨人ファン以外はだれも職業野球になど関心を失って、球場が赤字つづきになる。すばらしいことではなかろうか。不正が敗北するわけだから。どうか巨人「軍」よ、来年も再来年も勝ちつづけてくれ」と皮肉めいた感想を返した。

朝日新聞社を退職後、1993年(平成5年)に筑紫哲也、久野収らと週刊誌『週刊金曜日』を創刊し、現在同誌の編集委員を務めている。著書は朝日新聞時代から退職後に至るまで多数。代表的作品としては『貧困なる精神シリーズ』が知られている。

1994年(平成6年)、雑誌『噂の眞相』に木村愛二が「ホロコースト」の内容には再検証の余地があり、「ホロコースト」はイスラエル建国と関わりがあった可能性があると論じた記事「『シンドラーのリスト』が訴えたホロコースト神話への大疑惑」(同誌1994年9月号)を発表。以前から木村と交友があった本多は、木村の問題提起に関心を抱き、木村に『週刊金曜日』誌上で「ホロコースト」を見直す視点からの連載開始を要請した(この連載依頼のファックスは、木村によって公開されている)。しかし、1995年1月にマルコポーロ事件が起きると、『週刊金曜日』誌上で木村を批判、攻撃するキャンペーンを開始した事から、木村から名誉棄損で提訴された(この訴訟は、木村側の実質敗訴で終わっている)。

2002年(平成14年)、以前週刊金曜日の編集者だった山中登志子(『買ってはいけない』の著者の一人でもある)に請われて、「独断と偏見を無責任に編集すること」を唱う『月刊あれこれ』創刊編集長に就任した(2003年3月創刊)。『月刊あれこれ』は同年中に休刊し、メールマガジンの形で続刊を出した(月3回発行)。しかしこれも、2008年8月29日号を最後に休刊している。

現役の記者として有名になったときから、公式写真での姿を含めた公の場ではぼさぼさの黒髪(後に白髪)のカツラにサングラスを着けた変装をしている。彼自身がインタビューで説明(著書『貧困なる精神』収録)するところによると、「相手は自分の顔を知っているが、自分は相手の顔を知らない」という状態を避けるためである。記者として顔と名前が広く知られてしまうと、対面した人が最初から記者だと分かってしまうので、素顔を隠すことは取材に際して有益である。また、記事や発言に対して反感を持つ者の中に狂信的な者や暴力的な者がいた場合、容貌が判らなければ襲撃を避けられる。この変装については、小林よしのりが、本多が執筆依頼に訪れた際に自身の変装について語った様子を漫画『ゴーマニズム宣言』で描いたことで、広く知られるようになった。漫画では、普通の眼鏡をかけ黒髪が後退した穏やかそうな初老の男性として描かれているが、小林は「そっくりに描くことは避けた」と注釈している。

本多と敵対する論客のなかには長野県長野市(本多の言葉を借りれば『信濃国善光寺平の連中』)出身者がおり、代表的な人物としては日垣隆・花岡信昭・兵頭二十八があげられる。

本多の生まれは長野県下伊那郡大島村上新井であるが、生年は著書によって1931年(昭和6年)、1932年(昭和7年)、1933年(昭和8年)の3通りを記しており、どれが正しいのかは不明である。たとえば『中国の旅』ハードカバー版(1972年、朝日新聞社)によると1931年であり、同書文庫版(1981年、朝日新聞社)によると1933年であり、『殺される側の論理』(1982年、朝日新聞社)によると1932年であるという。生年月日を記した唯一の資料『現代日本人名録98』によると、1932年1月28日生まれだが戸籍上は1931年11月22日生まれであるという。ただし殿岡昭郎『体験的本多勝一論』(2003年、日新報道)によると、1987年3月3日、京都地裁で開かれたベトナム僧尼団焼身自殺をめぐる民事裁判の原告本人質問にて、本多は「1933年4月28日生まれである可能性がある」と発言しており、生年月日は未だに明らかでない。『しんぶん赤旗』では1931年生まれと自ら語っている。

日本語の数詞呼称に基づいたアラビア数字表記の区切り方の提唱、日本人の英語表記・発声についても姓→名の順にすべきとの主張(他のアジア諸国人については欧米でも姓→名の順にされている。日本のみの特有の表記)、英語をイギリス語、後にはアングル語と呼称する案など、日本に浸透したアングロサクソン系文化の相対化を意図した問題提起を行なっている。英語が世界共通語とされる事への反発があり、自著の冒頭にも、そうした独特の表記ルールを一覧表として掲げている。また、鉄道車内の英語案内放送について、「日本語の地名は、英語風のアクセントやイントネーションではなく、きちんと日本語で発音されるべき」との苦情を表明してもいる。これらの主張は、自著『殺す側の論理』『殺される側の論理』にまとめられている。

1970年代初頭、朝日新聞社内に広岡知男社長や森恭三論説主幹の指導によって安保調査会が結成され、反米親中を旨とする編集方針が定まると共に思想的転回を遂げたとされる。『WiLL』によると、この時期の本多は任錫均という朝鮮系の左翼理論家から多大な影響を受けたという(この件に関して、本多自身はいくつかの著書で「被害」と言っている)。

『中国の旅』にて、「2人の日本軍将校が百人斬り競争を行った」との当時の報道を紹介したことに対し、その将校の遺族3人から、事実無根の報道をされたとして、朝日新聞社等と共に謝罪や損害賠償を求める訴訟を起こされた(百人斬り競争#名誉棄損裁判)。2005年8月24日東京地裁は、『両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難であるとし、また「一見して明白に虚偽であるにもかかわらず、あえてこれを指摘した場合」(109頁)が死者に対する名誉毀損の判断基準であるとして、その上で、本多勝一の著述が「一見して明白に虚偽であるとまで認めるに足りない」と判断して、60年余り前の記事を訂正しなかったことについて先行する違法行為がなく、また、民法724条の除斥期間が経過しているとして原告の請求を棄却した。原告は控訴したが、2006年5月24日東京高裁は一審判決を支持し、控訴を棄却した。原告は最高裁判所に上告したが、2006年12月22日最高裁は上告を棄却した。

『中国の日本軍』において、「中国の婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。強姦や輪姦は幼女から老女まで及んだ」とキャプションをつけた写真を掲載している。その写真は笠原十九司『南京事件』Ⅲ章の扉にも使用されていたが、この写真は『アサヒグラフ』昭和12年(1937年)11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかえる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが、秦郁彦より笠原に対して指摘された。この写真は南京大虐殺紀念館でも長い間、日本の残虐行為の写真として展示されていたが、信憑性に乏しいことから展示を取りやめている。2014年にこの件について週刊新潮からのインタビューを受けると、「アサヒグラフに別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では始めてです」「確かに誤用のようです」とコメントした。

『本多勝一全集14』の『中国の旅(南京編)』では「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として日本軍に略奪された(写真;南京市提供)」とキャプションをつけた写真を掲載して いるが、この写真について東中野修道は、『朝日版支那事変画報』にて掲載された「民家で買い込んだ鶏を首にぶら下げて前進する兵士」という日本側が撮った写真であったとしている。本多は自身の著作に納められた写真が虚偽であった理由について、分からないと釈明した。

ベトナム戦争終結後、ベトナムのカントーにある永厳寺で、12人の僧侶が集団自殺をした。これは宗教政策への抗議ではないかとの疑いをもたれた。 この事件を取材した本多は自著で、サイゴン当局の説明では、僧侶が色情によって無理心中事件を起こしたものであり、政治的な背景は無かったということだった、と述べた。

これを受けて殿岡昭郎が、『諸君!』(1981年5月号)において、ベトナム統一仏教会最高委員会に接触し、焼身自殺が共産主義への抗議の殉教である証拠、確証を得たとしたうえ、「本多氏はハノイのスピーカー役を果たしている」として、虚偽を報じたので「筆を折るべきだ」などと批判した。

これに対し本多は、その部分の記述はあくまで当局の側の言い分であることを明記しており、そのうえで、当局の発表をもって結論とはできないとまで書いてあるのだから、殿岡の批判は曲解に基づいたものであると反論し、『諸君!』編集部へ抗議の手紙を送った。

さらに本多は、当時殿岡が助教授を務めていた東京学芸大学に、文を正しく読解せずに非難する学者がいても良いのかという質問状を送付する。これについて、同大学は無視することにしたと殿岡は説明するが、その3か月後に殿岡は同大学を退職している。このことと本多の質問状との関係は不明である。

その後、本多は、『諸君!』の投書欄に反論を投稿したが掲載を拒絶されたため、同誌の発行元である文藝春秋と殿岡を相手取って、東京地方裁判所に損害賠償請求の訴えを起こす。殿岡の本多への批判は、本多が書いた記事の曲解に基づくものであり、その訂正を求めても応じなかった。このため読者に誤解をさせ名誉毀損であるとするものであった。

1992年2月25日、東京地方裁判所は、掲載された文に本多の記事が引用されているため読者には元の文がわかるとして、本多の請求を棄却する判決を言い渡した。

『新潮45』2000年12月号で、週刊金曜日を退社した元社員の西野浩史は「私が見た反権力雑誌『週刊金曜日』の悲惨な内幕」という文章を発表し、

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