折口信夫の出身高校

折口信夫 学者

折口信夫卒業高校
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性別
男性
生年月日
1887年(明治20年)2月11日生まれ

折口 信夫(おりくち しのぶ、1887年(明治20年)2月11日 - 1953年(昭和28年)9月3日)は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。

彼の成し遂げた研究は「折口学」と総称されている。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。みずからの顔の青痣をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク)と名乗ったこともある。

歌人としては、正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。1924年(大正13年)北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。

1887年2月11日大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区敷津西1丁目・鷗町公園)に父秀太郎、母こうの4男として生まれる。

1890年木津幼稚園に通う。1892年木津尋常小学校(現在の大阪市立敷津小学校)に入学する。1894年叔母えいから贈られた『東京名所図会』の見開きに初めて自作歌を記す。感謝の念篤く、『古代研究』にはこの叔母への献詞を載せている。

1896年大阪市南区竹屋町、育英高等小学校に入学する。1899年4月大阪府第五中学校(後の天王寺中学)に入学する。中学の同級生には武田祐吉(国文学者)、岩橋小弥太(国史学者)、西田直二郎などがいた。

1900年夏に大和の飛鳥坐神社を一人で訪れた折に、9歳上の浄土真宗の僧侶で仏教改革運動家である藤無染(ふじ・むぜん)と出会って初恋を知ったという説がある。富岡によると、迢空という号は、このとき無染に付けられた愛称に由来している可能性があるという。

1901年15歳になったこの年に父親から『万葉集略解』を買ってもらう。『文庫』『新小説』に投稿した短歌一首ずつが入選する。

1902年成績が下がる。暮れに自殺未遂。1903年3月自殺未遂。作歌多し。

1904年3月卒業試験にて、英会話作文・幾何・三角・物理の4科目で落第点を取り、原級にとどまる。この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかった。同じく後年、天王寺中学から校歌の作詞を再三頼まれたが、かたくなに拒み続けたと伝えられる。大和に3度旅行した際、室生寺奥の院で自殺を図った若き日の釈契沖に共感、誘惑に駆られる。

1905年3月天王寺中学校を卒業する。医学を学ばせようとする家族の勧めに従って第三高等学校受験に出願する前夜、にわかに進路を変えて上京し、新設の國學院大學の予科に入学する。藤無染と同居する。この頃に約500首の短歌を詠む。

1907年予科修了、本科国文科に進んだ。この時期國學院大學において国学者三矢重松に教えを受け強い影響を受ける。また短歌に興味を持ち根岸短歌会などに出入りした。1910年7月國學院大學国文科を卒業する。卒業論文は「言語情調論」。1911年10月大阪府立今宮中学校の嘱託教員(国漢担当)となる。

1912年8月伊勢、熊野の旅に出た。1913年12月「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に発表し、以後、柳田の知遇を得る。1914年3月今宮中学校を退職し、上京する。折口を慕って上京した生徒達を抱え、高利貸の金まで借りるどん底の暮らしを経験したという。

1916年國學院大學内に郷土研究会を創設する。この時30歳。『万葉集』全二十巻(4516首)の口語訳上・中・下を刊行する。1917年1月私立郁文館中学校教員となる。2月「アララギ」同人となり選歌欄を担当する。一方で、國學院大學内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動する。1919年1月國學院大學臨時代理講師となる。万葉辞典を刊行する。

1921年7~9月柳田國男から沖縄の話を聞き、最初の沖縄・壱岐旅行。1922年1月雑誌「白鳥」を創刊する。4月國學院大學教授となる。

1923年6月慶應義塾大学文学部講師となる。第2回沖縄旅行。1924年1月亡師三矢重松の「源氏物語全講会」を遺族の勧めで再興する。後慶應義塾大学に移し没年まで続ける。

1925年5月処女歌集『海やまのあひだ』を刊行する。1927年6月國學院の学生らを伴い能登半島に採訪旅行し、藤井春洋の生家を訪う。1928年4月慶應義塾大学文学部教授となり芸能史を開講する。またこの年には「アララギ」を去って北原白秋らと歌誌『日光』を創刊する。

1932年文学博士の称号を受ける。日本民俗協会の設立にかかわり、幹事となる。1935年11月大阪木津の折口家から分家する。第3回沖縄旅行。1940年4月國學院大學学部講座に「民俗学」を新設する。愛知県三沢の花祭り、長野県新野雪祭りを初めて見る。

1941年8月中国へ旅し、北京で講演を行う。12月太平洋戦争起こり、藤井春洋応召。1944年藤井春洋、硫黄島に着任。春洋を養嗣子として入籍。1945年3月大阪の生家が戦災により焼失する。大本営より藤井春洋の居る硫黄島の玉砕発表。8月15日敗戦の詔を聞くと箱根山荘に40日間籠もる。

1948年4月古代感愛集により日本芸術院賞を受賞する。12月第一回日本学術会議会員に選ばれる。1949年7月能登一ノ宮に春洋との父子墓を建立する。1950年宮中御歌会選者となる。1953年7月初め箱根行き、健康すぐれず。8月31日衰弱進み慶應義塾大学病院に入院する。9月3日胃癌のため永眠する。養子として迎えた春洋(戦死)とともに、気多大社のある石川県羽咋市一ノ宮町にある墓に眠る。折口家の菩提寺願泉寺に分骨が納められている。

1915年(大正4年)の『郷土研究』誌に載った論文で、互いに似通った折口と柳田の論文が前後して載せられるという事件があった。折口が昨年のうちに送ったものが採用されず、柳田の「柱松考」が3月号、折口の「髯籠の話」が4,5月号に載ったというものだが、それを後に振り返って折口が言った「先生の「柱松考」を先に見ていれば、わたしは「髯籠の話」など書かなかった」という言葉に、潔癖さ、厳しさが表れている。

そして柳田も「(折口君という人は)真似と受け売りの天性嫌いな、幾分か時流に逆らっていくような、今日の学者としては珍しい資質を具えている」とその点では認めていた。ただし「マレビト」を認めない柳田と折口の間に論争があったのも事実である。二人は国学の先輩方に当たる賀茂真淵・本居宣長師弟のように、教えを受けながらも正当だと思ったところは譲らず、真理の追求を磨く学者の関係を持っていたといえる。

柳田は折口より12歳年上であったが、共に1945年(昭和20年)の敗戦時には60歳を既に迎えていた。その戦後のことを、重い口調で柳田は折口に話しかけたという。「折口君、戦争中の日本人は桜の花が散るように潔く死ぬことを美しいとし、われわれもそれを若い人に強いたのだが、これほどに潔く死ぬ事を美しいとする民族が他にあるだろうか。もしあったとしてもそういう民族は早く滅びてしまって、海に囲まれた日本人だけが辛うじて残ってきたのではないだろうか。折口君、どう思いますか」その問いにしばらく両者深く思い沈んでいたという。折口には、18年間共にした養嗣藤井春洋の硫黄島玉砕という重い出来事があった。その追悼の念は徹底的で、敗戦の詔を聞くと四十日間喪に服し、自分の死ぬまで遺影前の供養を欠かさなかったという。第二次大戦で失った戦死者の鎮魂は大きな課題で、戦没者が生前に殉じる価値を見出そうとした皇国などといった概念も天皇の人間宣言とともに潰え果てたのである。柳田も日本人の神や魂といった問題意識は共有していて、折口は後その問題を「民族史観における他界観念」という著に収斂させていくこととなる。

柳田が民俗現象を比較検討することによって合理的説明をつけ、日本文化の起源に遡ろうとした帰納的傾向を所持していたのに対し、折口はあらかじめマレビトやヨリシロという独創的概念に日本文化の起源があると想定し、そこから諸現象を説明しようとした演繹的な性格を持っていたとされる。なお角川ソフィア文庫版『遠野物語』に折口の跋文がある。

折口家は木津の願泉寺門徒の百姓であったが、曽祖父彦七の時から商家となり、生薬と雑貨を商った。

祖父の造酒(みき)ノ介はもと、大和の明日香村岡寺前の岡本善右衛門の八男であったが、同地の古社飛鳥坐(あすかにいます)神社の累代の神主家飛鳥助信の養子となった上で、折口家に養子として入り、医を本業として従来の家業を兼ねた。

父・秀太郎は河内国の名主の家の次男で、折口家の養子となり医を継いだ。信夫が生まれて7年のち双生児の弟が誕生するが、実は母こうが生んだのではなくて、同居する叔母ゆうと父の秀太郎との間に生まれたのであった。こうした家庭内の愛情にかかわる葛藤も、信夫の心に深い陰影を刻んだ。

長兄が医者の後を継いだ。

春のことぶれ 卒業する二兎人に

関連文献は百冊以上ある、あくまで一部で品切絶版を多く含む。

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