岸田森の出身高校

岸田森 脚本家

岸田森卒業高校
海城高校 偏差値 東京都高校偏差値ランキング
脚本家ランキング
5位 / 125人中 脚本家別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1939年10月17日生まれ
血液型
AB型

岸田 森(きしだ しん、1939年10月17日 - 1982年12月28日)は、日本の俳優、声優、劇作家、演出家。

1939年(昭和14年)、東京市杉並区阿佐ヶ谷(現・東京都杉並区阿佐谷)にある河北総合病院にて誕生する。5歳頃まで中野区本町通りに住んでいた。

1944年(昭和19年)、5歳。疎開先の箱根町立湯本小学校へ入学。

1947年(昭和22年)、8歳。帰京し、千代田区の九段小学校へ転校する。九段小学校の同級生に大空真弓がいた。麹町中学校から海城高等学校を卒業。麹町中学校の同級生に衆議院議員の加藤紘一、海城高校の1年後輩にはフリーアナウンサーの徳光和夫がいた。

この小学3年生のころから、蝶の収集を始める。

1958年(昭和33年)、19歳。一浪後法政大学英文科へ入学するが、2年生の時に俳優の道を志し、中退したという。

1960年(昭和35年)、21歳。文学座附属演劇研究所に研究生として入団。研究発表会のような内輪の演劇ばかりで、「年間収入が2~3万円という暮らしが5~6年続いた」と語っている。

1964年(昭和39年)、25歳。同期である女優・悠木千帆(後の樹木希林)と結婚する。

1965年(昭和40年)、26歳。文学座座員に昇格。

1966年(昭和41年)、27歳。年頭に退団。悠木、村松克己、草野大悟らと劇団「六月劇場」を結成し、以降は主に映画・テレビに活躍の舞台を移す。

同年の『氷点』(NET)が本格的なテレビ初出演と本人は語る。

1968年(昭和43年)、29歳。悠木(樹木)と離婚後、バーのマダムと再婚するが再び離婚。その後は女優・三田和代と交際関係にあった。『怪奇大作戦』(TBS)が、円谷プロとの初仕事となる。この作品への出演が自身の芝居の一大転機になったと語り、以後「僕は円谷育ち」と公言している。

1971年(昭和46年)、32歳。東宝映画『呪いの館 血を吸う眼』(山本迪夫監督)で吸血鬼を演じ、和製ドラキュラとの評価を得る。この東宝『血を吸う』シリーズは代表作となった。『帰ってきたウルトラマン』では主人公の師で兄代わりでもある坂田健役を好演した。

1973年(昭和48年)、34歳。円谷プロのテレビ特撮『ファイヤーマン』(日本テレビ)に出演。脚本を手がけた第12話では、部分演出も行う。また、スケジュールの合間を縫って、たびたびアジア方面へ蝶の採集に向かう。この年、和製ドラキュラの草分けともいえる天知茂と、天知主演のテレビ時代劇『無宿侍』(フジテレビ)第6話において兄弟役で共演している。

1977年(昭和52年)、38歳。『歌麿 夢と知りせば』(太陽社)に主演。生涯唯一の一枚トップクレジットで遇された映画、しかも映画主演経験を持つスターが十人以上も居並ぶ大作であり、カンヌ映画祭でも上映され話題を集めた。当作をはじめとして、円谷プロ以来のつきあいである実相寺昭雄監督は、後述の岡本喜八監督がバイプレイヤー、敵役としての魅力を引き出し続けたのに対し、ドラマ全体を支える役をあてることが多く、岸田にとってともに甲乙つけがたい名伯楽であった。

1980年(昭和55年)、41歳。テレビ公共広告の演出を手がけ、これと前後して、テレビコマーシャル分野で演出家としても腕をふるう。「エスビー食品」など水谷豊の主演するCFについては、「演出補助」と肩書きされるが、本人は「あれはすべて僕が演出しました」とコメントしている。

1982年(昭和57年)、12月28日午前4時59分 、食道ガンのため、43歳の若さで死去。墓所は神奈川県鎌倉市にある鎌倉霊園。訃報から間もない頃、前年出演したテレビ作品『太陽戦隊サンバルカン』(東映)の再放送が関東地方で始まり、第1話の岸田初登場シーンでは追悼テロップが流れている。葬儀の際に、岸田を弟のように可愛がっていた若山富三郎は、「こんな事になるんだったら、お前を殴ってでも絶交してでも酒を辞めさせるべきだった」と後悔のコメントを残した。葬儀では三田和代が遺影を持って挨拶した。「シーン」と涙ながらに叫ぶ場面は民放のワイドショーで中継された。

血液型AB型。身長169cm。趣味は蝶の収集・採集 、スコッチ・ウイスキー収集、油絵、シナリオ、ゴルフ、野球、植草甚一の影響によりジャズ鑑賞(レコードは相当なコレクションがあったとのことで、一番愛したアルバムはチャールズ・ミンガスの"Pithecanthropus Erectus"であったという)。特技は剣道(3段)。

岡本喜八、実相寺昭雄、神代辰巳、西村潔、工藤栄一などの監督作品の常連で、萩原健一、水谷豊、松田優作ら岸田を慕った俳優も多かった。草野大悟とは文学座以来、生涯の親友であり、盟友。勝新太郎も岸田の才能と個性を高く評価し、多数の作品で共演。勝が主宰した俳優学校「勝アカデミー」の講師も務めた(教え子に小堺一機、ルー大柴らがいる)。岸田今日子の評するところ「森ちゃんは教え好き」だったという。

実父は1956年(昭和31年) - 1957年(昭和32年)、火星の土地分譲で名を馳せた「日本宇宙旅行会(改称後・日本宇宙飛行協会)」の協会事務局長であったという。劇作家の岸田國士は叔父にあたり、女優・岸田今日子、童話作家・岸田衿子は彼の従姉妹に当たる。千代田区の麹町中学校に在籍していた当時、山形県から転校してきた(後に政治家となる)加藤紘一とも友人であった。

六本木でバーを経営し、岸田が学生野球ファンということあり、映画評論家の田山力哉が連れ立って岡田彰布、松本匡史など当時の東京六大学野球や、東都大学野球リーグの高木豊など各選手が時折店を訪れ、顔なじみであった。酒を愛し、自宅の洋酒コレクションには、客にせがまれたときのために、どれも半分以上の飲み残しがあったと、山本迪夫監督はキネマ旬報の追悼記事で人柄を偲んでいる。

無口で陰湿な役の多い岸田だが、プライベートでは寂しがりやで、出演待ち時間にはやかましいくらいのおしゃべりであったという。愛称は「しんちゃん」や「かみそり・しん」。常連の監督たちもそうだが、勝新太郎、水谷豊、松田優作ら俳優仲間、先輩後輩の指名を受けての仕事も多く、その演技力や個性とともに人柄がおおいに慕われていたことをうかがわせる。

大の酒好きとして知られるが、飲んでも人格が変わるようなことはなかったとされる。『ファイヤーマン』では、共演者の睦五朗と組んで助監督を巻き込み飲みに行けるスケジュールにさせていたという。嫌いなものは牛肉で、付き合っていた女性にも自分の前では牛肉を食べないように約束させるほどであった。

数々の円谷プロ作品にも出演し、「新劇をやっている自分のほうが不自然なんであって、心の中では僕は円谷育ちなんです。僕の芝居が他の役者に比べより豊かな飛躍のイメージがあるなら、それは円谷プロから教わったものです」と公言していた。演技に対しては非常にストイックでどんな小さな役柄も手を抜くことはなく、常に『ワンシーンで映画を変えてしまうような役者になりたい』と語っていたといい、実際本当にそういうことができる才能を持った役者でもあった。

円谷プロでは「退屈だったのと、特撮に興味を持ったので、それでしかできないものを作ってみたくなったから」と、朱川 審(あけかわ しん)の名で脚本も手がけている。岸田が執筆した『帰ってきたウルトラマン』第35話「残酷! 光怪獣プリズ魔」では、光をモチーフにしたという岸田のイメージを基にした怪獣「プリズ魔」の造型は、第2期ウルトラ怪獣随一の美しさと名高く、多くの関連本に登場する。「朱川審」のペンネームの由来としては、「本名では照れくさいのと、生まれた時に名づけられる予定だった審という名を復活させてみた」とコメントしている。

他には実名で『ファイヤーマン』第12話「地球はロボットの墓場」の脚本を手がける。岸田の演ずる水島隊員はこの回は全くセリフを話さず、その動作と口の微かな動きだけで感情や意思を表現するなど、実験的演出等を数多く取り入れた作品である。

『ファイヤーマン』では主演の誠直也(佐賀出身)の訛りがきつかったため、少しでもセリフの言い回しが違うと撮影の段階で芝居を止め無言の指導を行ったという。岸田は「俺は何時、お前(誠)に殴られるかと冷々だった」と語っていたが、逆に誠は「当時は辛かったが、あの時の岸田さんの指導があったからこそ、今の自分がある」と感謝の意を表している。

『ファイヤーマン』で共演した睦五朗によると、当作の放映時期、趣味の蝶の標本採集が高じ、たびたび東南アジア方面へ採集旅行に出ているが、旅行慣れした睦は岸田にいつもせがまれて同伴させられていたという。採集旅行先は台湾が多かったとのことだが、その際の岸田の服装が「迷彩色の上下にゲートル巻」といった軍装紛いのものだったため、毎回の旅行の度に行方不明となり、決まって警察に不審者として拘束されているのがオチだったという。「とにかく警察に捕まらなかったときがない」と睦も当時を述懐し、岸田を「奇人でした」と偲んでいる。蝶の標本コレクションは、そのまま展示館が開けるほどのものだった。蝶に関連して、蛾の「節操のなさ」を挙げ、岸田は「モスラが好き」ともコメントしている。蝶の色彩とも関連付け、「ウルトラマンの顔も、じっと見てると蝶々に思えてくる」とも語っている。蝶の収集は1974年の時点で、自宅に2000頭の蝶を収集していた。蝶を捕る際の服装に関して、「あまり服装に凝ると仲間にからかわれるので、素直な格好で出かけることにしている」とコメントしている。また、蝶が出没するならば、どんなロケ地でも厭わなく、「(蝶採集に時間が費やせるため)すぐに殺される役の方が有難い」とさえ語っている。

『太陽戦隊サンバルカン』(1981年、東映、テレビ朝日)で実現はしなかったが、2004年に開かれた出演者のインタビューによると初代バルイーグル / 大鷲龍介役の川崎龍介の降板を気の毒に思った岸田が「俺が "帰ってきた大鷲龍介" という脚本を書いてやる」と意欲を示した。実現しなかった理由については不明だが、プロットもできていて後は書くだけの状態だったといい、実現していれば三本目の岸田の脚本になっていたことになる。川崎の降板後も、川崎と酒席を共にするたびに「龍介、帰ってこい」と声をかけていた。

映画では岡本喜八監督作品に多数出演。『斬る』での初出演から亡くなるまでの監督作品14本中12本に出演しているが、出ていない2本は『斬る』の時点で準備が進んでいた次作『肉弾』と、前後篇の後編である『にっぽん三銃士・博多帯しめ一本どっこの巻』のみなので、まさに手放そうとしない気に入り様で、後期「喜八一家」のキーマン的存在であった。『ダイナマイトどんどん』(1978年、大映)のド派手なスーツをまとった敵方ヤクザ幹部役の抱腹絶倒演技、わずかな出番で作品の印象を一変させるような脇役を目指したい、と語っていたモットーを具現化したような『ブルークリスマス』(1978年、東宝)の不気味な政界黒幕秘書役などが代表的なものとして挙げられる。岸田の葬儀の際は、棺の先頭を担ぐ岡本の姿がTV報道された。

また、時代劇においては多くの歴史上の人物を演じたが、その中でも感情を抑制し知的なイメージが先行した役柄を多く演じた。代表的なものに、『徳川家康』(1964年、NET)での若き日の竹中半兵衛役(晩年期は原保美が代わって演じた)、大河ドラマ『草燃える』(1979年、NHK)では大江広元役を演じ、日本の歴史に名高い二人の名軍師を演じた。他、荻生徂徠、小栗上野介、鳥居耀蔵など、時代の転換期において活躍する知恵者の役柄も多い。

『血を吸う薔薇』(1974年、東宝)で共演した佐々木勝彦は、制作時に楽屋で岸田が髪の毛の薄さを気にしていたと語っている。岸田は同年制作の実相寺昭雄監督作品『あさき夢みし』(ATG)では、役作りで思い切って坊主頭にしていて、その際、普段はカツラを着用。この坊主頭を意図的に『傷だらけの天使』、『探偵物語』(日本テレビ)で活用している。

テレビドラマプロデューサーの宍倉徳子とは、宍倉がスクリプターを務めていた『曼荼羅』(1971年)で暴れた岸田を宍倉がなだめた縁で親しくなり、宍倉がプロデューサーとなった際には宍倉の作品には全部出ると述べ、実際に多くの作品に出演した。『可愛い悪魔』(1982年)では、ガンにより声が出なくなっていたが、喋ることのできない役に変更してまでも出演している。

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