大場翔太の出身高校

大場翔太 プロ野球選手

大場翔太卒業高校
八千代松陰高校 偏差値 千葉県高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
524位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1985年6月27日生まれ

大場 翔太(おおば しょうた、1985年6月27日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(投手)。愛称は「ばっさん」。

八千代松陰高校時代は春に関東大会出場があるものの、夏は県大会ベスト8が最高で甲子園出場はなかった。進学した東洋大学では一年秋からリーグ戦に登板し、二年春には二試合連続完封を挙げるなど高市俊と共にリーグトップの防御率をマーク。以降先発に定着した。2006年に行われたIBAFインターコンチネンタルカップでは最優秀防御率を獲得。

永井怜が卒業し最上級生となった2007年、春はリーグタイ記録の9勝・リーグ新記録の115奪三振。秋にも8勝を挙げ同大学初の春秋連覇に貢献し、二季連続でMVP・最優秀投手・ベストナインの三冠に輝いた。同年行われた第56回全日本大学野球選手権大会のベスト8、そして明治神宮野球大会では2完封を含む三連続完投勝利で初優勝にそれぞれ貢献。すべて完投で優勝したことから「平成の鉄腕」の異名がついた。同じく2007年に行われた日米大学野球選手権大会の初の敵地優勝、プレ五輪の優勝にも日本代表の一員として貢献した。大学通算62試合登板33勝11敗、防御率2.13。通算410奪三振と春から秋にかけての14連勝もリーグ新記録。

2007年の大学・社会人ドラフトにおいて最大の目玉とされ、6球団(オリックス、横浜、ソフトバンク、阪神、日本ハム、巨人)から1位指名を受け、抽選の結果福岡ソフトバンクホークスが交渉権を獲得。同年12月19日、契約金1億円+出来高5000万円、年俸1500万円の最高条件で仮契約を結んだ。

2008年、3月23日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦でパ・リーグ史上初のプロ初登板で無四球完封勝利を記録。4月5日の千葉ロッテマリーンズ戦では7者連続三振を含む球団新記録の16奪三振で2度目の無四球完封勝利を記録した。しかし徐々に成績を落とし、シーズン中盤には二軍に落ち、3勝に終わった。13試合で14被本塁打といわゆる「一発病」に苦しみ、クイックや牽制などの技術面でも課題を残した。当時の二軍監督石渡茂は「彼は気持ちを表に出すタイプなので、序盤以降は精神的な部分に問題があった」と語っている。

2009年は1月に東洋大学先輩の田中大輔、永井怜と母校東洋大学で合同自主トレを行った。先発登板した7月31日の対オリックス・バファローズ戦では1回表に大引啓次の頭部に死球を与え、わずか8球で危険球により退場処分となった。先発として12試合に登板し0勝3敗、防御率5.86、WHIP1.52に終わるが、リリーフでは10試合の登板で1勝0敗、防御率2.36、WHIP1.10の成績を残した。

2010年は一軍登板4試合に終わるも、ファームではウエスタン・リーグ規定投球回到達者中2位の防御率2.99と同1位のWHIP0.89をマーク。与四球率も1.49に抑え、課題であった制球難に改善の兆しが見えた。10月には台湾で開催された第17回IBAFインターコンチネンタルカップの日本代表に選ばれ、11月には岩嵜翔と共にプエルトリコのウィンターリーグに派遣され、クリオージョス・デ・カグアスに所属。6試合に先発し34回を投げ4勝0敗、防御率2.65、WHIP1.35の成績を残し、ドミニカ共和国とのオールスターゲームにも選出された。監督のリノ・リベラからは「メジャーでも通用する才能とポテンシャルを持っている」と高く評価され、自身は投手コーチからツーシームを教わり「投球が楽になった」と語った。

2011年はルーキーイヤー以来の開幕一軍を果たし、序盤は敗戦処理や大量リードの展開で安定した成績を残した。7月15日の対ロッテ戦で3回で降板した山田大樹の後を受け3回1/3を投げ1失点と好投し、2年ぶりの勝利を挙げた。19日の埼玉西武ライオンズ戦では抹消されたD.J.ホールトンの代役として初先発し、5回2/3を投げ2安打10奪三振で白星を挙げ、さらに8月4日の対オリックス戦でも先発予定だった大隣憲司の体調不良により代わって先発し、5回無失点の投球で3勝目を挙げた。このように代役やスクランブルで先発や長いイニングを投げることが多いことから『ミスター代役』、『お助けマン』などと呼ばれた。18日の対オリックス戦では3年ぶりの完封勝利を達成し、8月は5試合に先発し1完封を含む4勝1敗、防御率1.71、WHIP1.01の活躍で自身初の月間MVPを初受賞した。先発した9月19日の対オリックス戦では、1回裏に打者二人目の大引啓次のヘルメットのつば付近に死球を当てたため、危険球によりわずか6球で自身二度目の退場処分となる。なお、同試合は3回途中に降雨によりノーゲームとなったが、試合成立はしなくても退場は記録に残る。

2012年はシーズン序盤に右肩痛で出遅れる。5月に入ってから一軍に昇格し、中継ぎで3試合に登板後、6月10日の対阪神タイガース戦に先発し、6回を投げ無失点9奪三振と好投しシーズン初勝利を上げる。その後連勝するが、次第に要所で打たれる場面が相次ぎ、完投負けを喫すなどの不運もあり5連敗。8月3日の対西武戦では初回先頭打者から3連打を浴び、さらに自らの暴投と四球を重ね1アウトしか取れずに2失点し降板する。その後一軍登録を抹消され、シーズン後半は二軍生活を送り、この年は登板10で2勝5敗、防御率2.38の成績を残した。

2013年は一軍の11試合に先発したが、打ちこまれる場面が多く、防御率が前年より大きく悪化。結果を残すことができなかった。

2014年以降は選手層が厚くなったことと、二軍で目立った成績を残すことができなかったことから登板機会が激減した。2015年、更に選手層が厚くなり、二軍でもわずか10試合の登板に終わり、プロ入り初めて一軍登板がなかった。

2015年10月30日、金銭トレードで中日ドラゴンズへ移籍することが両球団から発表された。11月4日には日本野球機構(NPB)より正式に公示され、中日球団への入団会見も行われた。背番号は59に決まった。

東都大学野球連盟で2007年春季に挙げた9勝を全て完投で記録する抜きん出たスタミナで注目を浴び、「平成の鉄腕」の異名を持つ。

平均球速約141km/h、最速151km/h(プロ入り後の最速は150km/h)のストレートと縦に鋭く変化するスライダー、SFFを武器とし、特にスライダーはパ・リーグのスコアラーからリーグを代表する変化球の一つに挙げられ、SFFは2009年には被打率.155を記録した。他にも横に変化するスライダーにカーブ、プエルトリコのウィンターリーグで習得したツーシーム、チェンジアップといった球種を持ち、2012年までの一軍での通算8.15と高い奪三振率を誇る。一方で四死球の多さを課題とし、打たれだすと止まらなくなるため、精神面での成長も望まれている。

チームきっての天然キャラであり、数々の珍発言・珍エピソードを残している。そのためか、川崎宗則曰く「松田は天然系、大場は宇宙系」、またD.J.ホールトンからは、「何処の星から来た?どこで地球の言葉を覚えたの?」とまで言われたことがある。

2008年の秋季練習中、投手陣15人に対して行われた「イエスなら左へ、ノーなら右へ走る」というメニューで、「大場とじっくり話をしてみたい?」と質問された際、大場を除く14人がノー(右)の方向へ走った。

2011年8月11日の試合で勝利投手となった際、お立ち台で「1、2、3、オイサー!」とのかけ声を披露。以来、自身がヒーローインタビューを受ける時の定番となっている。ちなみに「オイサー」の由来は博多祇園山笠で使用されるかけ声からきている。

中学時代、1998年当時八千代松陰高校のエースで甲子園に出場した多田野数人の投球がきっかけとなり、同校への進学を決めた。

また2000年夏の高校野球埼玉大会で、中里篤史が5回コールドゲーム、すべてのアウトを三振で取る15奪三振の完全試合を達成した試合を現地で観戦し、この時投手になることを決意した。そして中里が中日へ入団し、デビュー戦(2001年9月16日の巨人戦)で高橋由伸、松井秀喜と対戦し、適時打も打つなど活躍する姿を見て、自身も中日への入団に憧れるようになった。2015年オフのトレードで大場も中日へ入団し、14年越しにその願いを叶えることとなった。

大引啓次にはオリックス・日本ハム時代に3回頭部、および上半身への死球を与えている。これは史上初の記録であり、2013年の際は激高した大引がマウンドに詰め寄って止めようとした山崎勝己と揉み合いになるという場面があった。

公共広告機構(現ACジャパン)「川崎選手、キーパーになる」(2008年、九州限定) - 川崎宗則、山崎勝己、松田宣浩と共演。

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