城島健司の出身高校

城島健司 プロ野球選手

城島健司卒業高校
明豊高校 偏差値 大分県高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
3175位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1976年6月8日生まれ

城島 健司(じょうじま けんじ、1976年6月8日 - )は、長崎県佐世保市出身の元プロ野球選手(捕手、内野手)。現在は有限会社城島企画所属の芸能人。

4歳の時、読売ジャイアンツ(巨人)の王貞治が引退試合で挨拶しているビデオを見てプロ野球選手に憧れるようになり、小学4年の時に少年野球チームに入って捕手を務めた。中学3年の時にプロOBによる野球教室で王に褒められ、また冗談半分ながら巨人入りを勧められたことで、巨人への気持ちが高まった。別府大学付属高等学校に進んだ当初は隠していたが、強肩を見込まれここでも捕手に指名された。この時から「自分は捕手をやるために生まれた。それが宿命」と考えるようになり「これまでにない、打って守って走れる捕手」を目指す決意を固めた。高校では1年の時から4番を打ち、高校通算70本塁打を記録したが、甲子園への出場はならなかった。

城島は巨人入りを見据えて東都大学リーグで力をつけることに決め、いち早く獲得に動いた駒澤大学への推薦入学を取りつけた。さらにプロ入り拒否を表明したため、スカウト陣が二度目に訪問したときにはもう会えなくなっていた。しかしそれ以前にはプロ入りを希望していたことや、巨人・西武ライオンズ・福岡ダイエーホークスの3球団を志望しているものの逆指名できない高校生であることから、本心は進学ではなくプロ入りだと読んだダイエーの根本陸夫らは1994年のドラフト会議の前日、1位での強行指名を宣言。アマ球界との摩擦を恐れたコミッショナー事務局が警告したものの、ダイエーは宣言通り1位指名した。城島は巨人入りを志望していたが、そのきっかけとなった王がダイエーの次期監督に内定していることを知り、その後監督に就任した王から要請されたことでダイエー入りを決めた。

この件をきっかけに、プロ入り拒否の選手はドラフト会議で指名できないというルールが作られた。

入団当初、打撃には非凡なところを見せていたが、ワンバウンドの投球を捕球することができず、身体が投球から逃げほとんどが暴投もしくは捕逸になる状態であるなど捕手としての評価は低かった。当時バッテリーコーチを務めていた達川光男を始め、野村克也や森祇晶らOBからも「キャッチャーに向いてない」という声が上がった。周囲も捕手にこだわる必要性を感じておらず、一時は監督の王も一塁手にコンバートする意向を示し、後に実際に一軍の公式戦で一塁と二塁を守ることもあった。

1年目の1995年は首脳陣の方針により二軍スタートだったが、5月31日の対オリックス・ブルーウェーブ9回戦(福岡ドーム)で代打として一軍初出場。7月9日の対千葉ロッテマリーンズ15回戦(千葉マリンスタジアム)ではエリック・ヒルマンからプロ初安打を放ち、同時にプロ初打点も挙げた。7月14日の対オリックス17回戦(福岡ドーム)では8番捕手としてプロ初スタメンを果たした。一方、本塁打は1本も打てず、二軍のウエスタン・リーグでも1本だけだった。

1996年は開幕から二軍で英才教育を受け、8月24日に25本目の本塁打を放ってウエスタン・リーグ新記録を達成。9月3日に一軍昇格し、翌年以降をにらんで残り試合のほぼ全てでスタメン起用された。9月10日の対近鉄バファローズ21回戦(福岡ドーム)では久保康生から一軍初本塁打を記録。オフには同僚の吉武真太郎らとともにハワイ・ウィンターリーグに派遣された。

1997年開幕より一軍のレギュラー捕手に定着。1997年のオールスターゲーム (日本プロ野球)ファン投票では、戦後生まれでは最年少となる21歳45日で捕手部門1位に選出された。同年は打率.308を記録、21歳での捕手3割打者としては1944年の阪田清春(20歳)に次ぐ年少記録だった。工藤公康・武田一浩らベテラン投手、バッテリーコーチの若菜嘉晴の公私共の支え、ロッテから移籍してきた先輩捕手田村藤夫の教えもあり、以後不動の正捕手となった。工藤と武田に教えを仰いだ際には、深夜の宿舎で就寝している2人の部屋に押しかけたこともあった。特に工藤からは、試合中の配球についてたびたびベンチ前で説教されるなど徹底した指導を受け、後に「あれがあるから今の自分があるという気がする」「工藤さんには本当にいろんなことを教えてもらった」と述べている。これに対して工藤は「僕が育てたんじゃなくて彼が自分で育った」「どれだけ厳しく叱っても食らいついてくる強靭な精神力が彼にはありました」と語っている。

1998年は前年の活躍もあってか徹底的にマークされ、100安打を打てず、打率.251と低迷した。ただし、チームは長年続いた不振を脱し、南海からダイエー譲渡後10年目で初となるAクラス入りを果たし、3位となった。

1999年4月30日、城島のダイエー入りに大きな影響を与えた球団社長の根本が死去。城島は根本への恩返しとして日本一になることを誓った。初の全試合出場を果たし、リーグ3位の打率.306を記録するなど、球団初のリーグ優勝・日本シリーズ優勝に大きく貢献し、リーグ優勝が決定した瞬間には号泣した。この年、工藤は城島に対し「今年1年間お前が出すサインには一切首を振らないから自信を持ってサインを出せ」と言っていた。この年、工藤と城島のバッテリーで最優秀バッテリー賞を受賞したが、会見の席で工藤から「まだまだ下手」と一蹴され、それに対して城島は「来年も工藤さんとこの賞が取れると信じてますけど、どうやら工藤さんにその気がないみたいなので来年は別の人と取りたい」と答え、場内の笑いを誘った。

2000年は右手の骨折により84試合の出場にとどまったが、チームはリーグ2連覇し日本シリーズに出場。日本一は逃したがシリーズタイ記録となる4本塁打を放つなど活躍し、同シリーズ敢闘賞を受賞した。この年の秋に入籍。

2001年は4月13日の対オリックス3回戦の9回に史上15人目で17度目の1イニング2本塁打を記録。この試合では6回にも本塁打を打っており、グリーンスタジアム神戸での1試合3本塁打は史上4人目であった。シーズン通算の打率はリーグ28位の.258と低迷したが、本塁打は自身初の30本越えとなる31本塁打(リーグ9位)を記録。捕手の30本以上は史上5人目であった。この年は小久保裕紀がリーグ4位の44本塁打、松中信彦がリーグ6位の36本塁打、井口資仁がリーグ12位の30本塁打を記録し、30本塁打を放った打者が同一チームに4人というパシフィック・リーグ初の記録になった。また、4人全員が日本人選手だったのはプロ野球史上初であった。

2002年、シーズン途中に守備についている際に打球を鎖骨に受け骨折。このとき城島の故障の穴埋めのため、日本ハムファイターズから田口昌徳が移籍してきた。また、福岡ローカルのホークス応援番組では、城島がゴルフ好きであることから、骨折した鎖骨を固定していたチタンボルトをパターの一部にして城島にプレゼントした。骨折で出場試合数が減少したにもかかわらず、本塁打はリーグ12位の25本を記録。打率もリーグ10位の.293で、3年ぶりにリーグトップ10に返り咲いた。

2003年には「地味なキャッチャーの時代は終わりました。子どもたちに夢を与えるスーパーキャッチャーになりたい」と抱負を語り、自主トレーニングの際には3割・30本塁打・30盗塁・100打点を公言した。前年ほぼすべての試合で4番を務めた小久保が開幕前にケガで離脱し、この年の開幕戦は松中が4番、城島が5番を務めた。それからシーズン終了までほぼ城島が5番に座ったが、一時期は4番を務めることもあった。盗塁はリーグ14位の9に終わったが、リーグ6位の打率.330, リーグ3位の34本塁打、リーグ2位の119打点を記録。特に打点は、最終戦で松中に逆転を許すまではリーグ1位であった。松中、井口、ペドロ・バルデスとともにプロ野球史上初の「同一チームで100打点打者が4人」という記録を作り、チームの3年ぶりのリーグ優勝に貢献するとともにMVPにも選出された。7月27日の対オリックス戦では仰木彬と並ぶリーグタイ記録となる1試合6安打を記録した。日本シリーズでは後に移籍することになる阪神タイガースと対戦。2000年の日本シリーズに続き、長嶋茂雄以来史上2人目となるシリーズ2度目の4本塁打を放ち、チームの日本一に大きく貢献した。この年放った34本塁打は全て右投手から打ったもので、シーズン中は左投手から1本も打てなかったが、4本塁打を放った日本シリーズでは第1戦に井川慶、第7戦にトレイ・ムーアから打った。これについては、当時のパ・リーグには一流の左投手と呼べる存在がおらず、レギュラーシーズン中は対右投手用の打撃練習を徹底しておいて、シリーズ前になってからセントラル・リーグを代表する左投手である井川、ムーア、下柳剛、ジェフ・ウィリアムス、吉野誠との対戦をにらんで対左投手用の打撃に集中していたことを『GET SPORTS』などの取材で明らかにしている。シーズン終了後にはアテネオリンピックのアジア予選に出場し、日本代表の4番を務めた。

2004年6月1日に通算1,000本安打を達成した。出場939試合目での達成は、捕手では1952年の土井垣武に並ぶ最速記録となった。夏にはアテネオリンピックの本選に日本代表として出場し、4番打者・正捕手として活躍。チームは銅メダルを獲得した。8月27日にアテネから帰国した成田空港からタクシーで直接西武ドームに向かい、代打で出場したが左飛に終わった。最終的に、捕手シーズン打率パ・リーグ新記録となる.338(リーグ3位)を記録。オリンピック前までは打撃3部門すべてにおいて松中信彦と熾烈なタイトル争いをしていたが、オリンピックによる離脱もあり、タイトル獲得はならなかった。チームはレギュラーシーズンで優勝し、西武とのプレーオフに出場。最終戦に松坂大輔から先制本塁打を放ったが、チームは敗れ、リーグ優勝を逃した。

チーム名が福岡ソフトバンクホークスに変わった2005年には、6月4日に通算200本塁打を達成した。しかし7月中旬に右肩痛を訴え離脱。その後8月28日にスタメン復帰したが、9月22日の対ロッテ戦で自打球を左スネに当て全治2か月の骨折を負い、残りの試合には出場できなかった。プレーオフに敗退した際、ベンチで泣き崩れる的場直樹に対し「胴上げをよく見てその悔しさを心に留めておけ」と言葉を掛けた。この年、怪我に苦しみながらも通算4,000打数を達成。この時点での通算打率.299は捕手としてプロ野球歴代1位となった。

オフにはアラン・ニーロを代理人としFA権を行使。11月22日に3年1,650万ドルでシアトル・マリナーズと契約し、日本人捕手としては史上初のMLB選手となった。

2006年、4月3日のロサンゼルス・エンゼルスとの開幕戦(セーフコ・フィールド)に7番捕手として初出場。本拠地で打席に入る際の曲にはジミ・ヘンドリックスの「Hey Joe」を使用(入団の際にはTV番組『笑点』のテーマを登場曲の候補の1つに上げていたこともあった)。バートロ・コロンから第2打席にメジャー初安打を本塁打で記録。デビュー戦での本塁打は松井稼頭央に続き日本人史上2人目となった。続く4日の対エンゼルス戦では、チームでは1984年のアルビン・デービス以来となるデビュー戦から2試合連続本塁打を記録した。9月15日の対カンザスシティ・ロイヤルズ戦(カウフマン・スタジアム)から打順は3番に定着。19日の対テキサス・レンジャーズ戦(アメリクエスト・フィールド・イン・アーリントン)では、日本人メジャーリーガーの1年目としては松井秀喜を上回り最多となる17号本塁打、25日の対シカゴ・ホワイトソックス戦(USセルラー・フィールド)では、マリナーズの捕手としては最多記録と並ぶ18号本塁打を記録。シーズン最終戦となる10月1日の対レンジャーズ戦(セーフコ・フィールド)では最終打席で1962年のバック・ロジャースのア・リーグ新人捕手シーズン最多安打記録146を44年ぶりに更新する安打を放った。最終的に新人の日本人選手としては2001年のイチローに次いで2位となる打率.291, 同最多かつ1996年のダン・ウィルソンと並び新人での球団史上最多となる18本塁打、76打点、同1位のOPS.774を残した。新人野手としてはリーグの本塁打と打点部門でトップの成績だったが、新人王争いの投票では投手3人に続く4位に終わった。

言葉の壁や戦略の違いなどで最も難しいといわれていた捕手のポジションでレギュラーに定着し、捕手ではジェイソン・ケンドールに次ぐ両リーグ2位の131試合に先発出場したが、「打者が打てない確率の高いボールを投手に投げさせる」という日本のリードと、「投手に一番投げたいボールを投げさせる」という考えが主のアメリカのリードとの違いや捕手のあり方で苦悩した。捕手のサインも、日本では投手が捕手のサインに従う傾向だが、メジャーでは捕手が投手に従う傾向が多く、このような異文化ともいえる考え方の違いやメジャーでの経験がほとんどないこともあって、マリナーズ投手陣が城島のサインにうなずかないことも多々あった。大ベテランのジェイミー・モイヤーとバッテリーを組んだ試合では、打者がモイヤーの内角低めの速球を大ファウルした後、城島は外角のカーブを要求したが、モイヤーはサインに首を振り内角低めの速球を要求。モイヤーの考えとしては「どんなに上手く打っても、100%フェアゾーンに打たれないコースと球種の選択」と内角低めの速球を投げていた。結局、2球続けてモイヤーの要求通りに投げて打者を三振させた。オフにはこうした城島の苦悩を描いたエピソードがテレビ放送や新聞の連載で紹介されたが、アメリカでは「これまでと違う言語で新しい投手たちとコミュニケーションを図ることに努力しながらこれだけの打撃成績を収めたのは我々の脳裏に強く焼き付いた」という『USAトゥデイ』紙を始め、数々のメディアで賞賛された。

2007年は135試合に出場し、打率.287, 14本塁打、61打点、OPS.755を残し、守備率(863守備機会で.998)と盗塁阻止率 (.465) では両リーグトップを記録したが、捕手防御率 (CERA) 5.08は両リーグワースト2位であったため、高い盗塁阻止率にもかかわらず守備防御点は-7だった。7月3日の対カンザスシティ・ロイヤルズ戦では右手甲に打球を受け負傷したが、2000年に骨折した際に埋め込まれていた金属プレートのおかげで、再度の骨折を回避できた。オフにはCBSスポーツの捕手ランキングではホルヘ・ポサダ、ビクター・マルティネス、ラッセル・マーティン、ジョー・マウアーに次ぐ5位に入り、"2007 This Year in Baseball Award" の "Defensive Player" 部門に捕手で唯一ノミネートされた。

2008年はスプリングトレーニングで18試合の出場で打率.321, 2本塁打、OPS.836と例年以上の好成績を残し、4月25日には3年2,400万ドルで契約を延長。しかし前半戦打率.213, OPS.549と打撃不振に陥ったことに加え、投手陣がジェイミー・バークに信頼を置き始め、首脳陣も当時有望株だったジェフ・クレメントのテストを始めたこともあり、一塁手へのコンバートも噂された。8月10日にレギュラーを剥奪されたことが報道されたが、9月はクレメントが膝の手術でシーズンを終えたため、再びレギュラーとして起用された。最終的に112試合出場、自己最低となる打率.227, 7本塁打、39打点、OPS.609に終わり、翌年から3年総額26億円の高額な契約を結んでいたこともあって、ESPNの選ぶア・リーグの "Least Valuable Player"(MVPの逆、「最も価値の低かった選手」)に選出された。

2009年は第2回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出。全試合にスタメン出場し、9試合で30打数10安打(打率.333)、1本塁打・4打点・1盗塁・4得点で日本の2連覇に貢献した。レギュラーシーズンでは正捕手としてスタートしたが、4月16日に右太股裏の肉離れで15日間の故障者リスト入り、5月26日に左足親指骨折で2度目の故障者リスト入りするなど序盤は怪我に見舞われた。また城島が不在の間に新人のロブ・ジョンソンが投手陣の信頼を集め、城島の復帰後もフェリックス・ヘルナンデス、ジャロッド・ウォッシュバーン、エリック・ベダードの先発三本柱はジョンソンと組んだため、出場機会が激減。後にウォッシュバーンは移籍、ベダードは怪我で離脱したが、三本柱の先発した65試合のうち城島がマスクをかぶったのは序盤の10試合のみだった。打撃は2008年よりやや持ち直し、71試合の出場ながら打率.247, 9本塁打、22打点。本塁打率ではメジャーに来てから自己最高の数字を残したが、RC27は4.03という低調な数字に終わった。無走者時の打率.290に対し、走者を置いた状況下では打率.188(得点圏打率.184)と大きく数字を落とした。守備面では規定試合数に届かなかったものの盗塁阻止率では自己最高の.537を記録、メジャー通算でも.400としたが、CERAが4.86となり、ロブ・ジョンソンの3.23を大きく上回ってしまった。エースのヘルナンデスは城島とバッテリーを組んだ試合では1勝3敗、防御率7.22, QS率20 % (1/5) だったが、城島以外の捕手と組んだ試合では18勝2敗、防御率1.81, QS率96.6 % (28/29) という好成績を残した。ただし、ヘルナンデスは毎年5月に不調に陥る傾向で、城島が復帰した5月の数試合はちょうどその時期と重なっており、城島が退団した後の2010年もロブ・ジョンソンと組んだがその傾向に変化はなく、月別防御率はむしろ悪化している。

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