原田真二の出身高校

原田真二 ミュージシャン

原田真二卒業高校
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412位 / 829人中 ミュージシャン別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1958年12月5日生まれ

原田 真二(はらだ しんじ、1958年12月5日 - )は、広島市榎町(現・中区榎町)出身の日本のシンガーソングライター。

ボーカル、作詞、作曲、編曲、プロデュース。楽器はギター、キーボードを主要に扱うが、ベース、パーカッション、マリンバ、ブルース・ハープ、ドラム、琴、和太鼓なども演奏。ミックス、プログラミングもこなす、マルチプレイヤー、マルチミュージシャンである。所属事務所はエアーフィールド(個人事務所)。

広島舟入高等学校2年在学中に、フォーライフ・レコード新人オーディションに応募。吉田拓郎に見出され3,000曲の中から選ばれた[注釈 1]。1977年4月、青山学院大学経済学部第二部経済学科入学と同時に上京。18歳だった同年10月25日に、拓郎プロデュースにより「てぃーんず ぶるーす」でデビューした。

フォーライフに送った応募テープは、一人で多重録音をしていたといわれ[7][8]、ピアノの他、ギター、シンセサイザーもこなし編曲も自分でやったといわれる[7]。セカンド・アルバムをセルフ・プロデュースしたように[9]最初から音楽的すごさ・才能のずば抜けた"早熟の天才"であった[10]。デビューアルバムに参加した鈴木茂が、「ほとんどやることはなかったよ」と言ったという[9]。原田真二バンドと佐野元春のバンド、ハートランドをドラマーとして掛け持ちした古田たかしは[11]、ブレイク前の佐野を「すごいんだよ、マインドが真二とそっくりなんだ」と評した[9]。

「てぃーんず ぶるーす」発売後、翌11月に「キャンディ」、12月に「シャドー・ボクサー」をリリース。「3ヶ月連続レコードリリース」という前代未聞の形でデビューを飾ると、3曲が同時にオリコンベスト20入りするという、日本音楽史上初の快挙を達成した[12][13][14]。「3ヶ月連続レコードリリース」は、当時の所属事務所の社長大里洋吉のアイデアによるものだが、どの曲も捨てがたく1曲にデビュー曲を絞れなかったという事情もあった。「てぃーんず ぶるーす」、「キャンディ」、そして翌年に発売された「タイム・トラベル」は『三部作』と呼ばれる。更にファーストアルバム「Feel Happy」(1978年2月発売)も、オリコン史上初の初登場第1位を獲得した(4週連続1位)[8]。10代でのファーストアルバム、オリコン1位獲得は、男性シンガーソングライターでは未だ原田のみ(2011年10月現在)[15][16]。

1978年7月24日、デビュー1年目(9ヶ月)、10代ソロ歌手、では史上初の日本武道館公演を行う[16][17][18]。この公演を皮切りに9月15日の大阪府立体育会館まで全国六都市12ヶ所で行ったアリーナ(体育館)ツアーも、井上陽水がやって以来のもの。まだコンサート用のアリーナが少ない時代で、5000~6000人規模の全国の体育館を廻った。音楽最優先のスタッフが結集され、当時世界最高のPAシステムをアメリカとイギリスから導入した[注釈 2]。お客はほぼ100%女子中高生であった[7]。この年の武道館ライブを中心としたステージ・ドキュメント映画「OUR SONG and all of you」も製作されている。監督はドキュメンタリー映画「キャロル」で名をあげた龍村仁である。翌1979年の武道館では、数曲、サックスプレイヤーの手を借りた以外は、原田のバンド5人だけで全ての音を出した。ギター1本弾き語りの松山千春を除くと、当時の武道館コンサートでは、最も小さい編成でやり遂げ、バンド総体としてのハイレベルのパフォーマンスも高い評価を受けた。 同年、4枚目のシングル「タイムトラベル」で『第29回NHK紅白歌合戦』にも初出場。

「日本のニオイのまったくないメロディー」などと評され、それまでとは比べものにならないくらいポップ感覚にあふれた洋楽的なサウンドは、「和製ロック」に新しい可能性と展開をもたらした[7][13][14]。原田自身も「最初から洋楽のロックの世界を目指した」と話している[13]。ポール・マッカートニーやエルトン・ジョン、ギルバート・オサリバンなどのロック系シンガーソングライターに通じる本格的なポップス感覚は[10]、それまでのフォークを基調にした"私小説的"な、日本のシンガーソングライターのイメージを覆した[8][13]。"元祖ピアノロック"等と今日いわれるように、男性のピアノの弾き語りというスタンスが珍しかったこと[13][17]、その特徴あるカーリーヘアーと少女マンガの世界から飛び出したような可愛いルックス、ハスキーボイスが、女子中・高校生を中心に絶大な支持を受けロック・アイドル的人気を博した[13][14][17]。すさまじい人気は本家・男性アイドル新御三家を完璧に食い、洋楽アイドル、ベイ・シティ・ローラーズらにも対抗した。当時はまだ"ニューミュージック系の人達はテレビに出ない"という風潮がある時代であったが『ザ・ベストテン』(TBS、1978年1月放送開始)が始まったこの時期、大里と拓郎は原田を積極的にランキング番組やアイドル系歌番組にも出演させた[13]。『ザ・ベストテン』には第3回(1978年2月2日)放送で、ニューミュージック系歌手として初出演[注釈 3]、第5回(1978年2月16日)放送では、番組初の2曲同時ランクイン、以降も毎回のように出演し、少し早くデビューしたChar、同時期にデビューした世良公則&ツイストとともにロック御三家と呼ばれ[注釈 4]、初めて頻繁にテレビ出演したロック系ミュージシャンであった。また「月刊明星」、「月刊平凡」、「セブンティーン」などのメジャーなアイドル雑誌、芸能誌にも頻繁に登場。当時アイドルの最大のステータスともいえた「月刊明星」(1978年3月号)の表紙や「TVガイド」の表紙をニューミュージック系、ロック系ミュージシャンとして初めて飾るなど[注釈 5]、極めて歌謡曲的な売り方、話題先行型のプロモーション戦略をとり、これが見事に的中した[9]。原田らが成功したことで、シングルチャートやテレビ、ラジオの歌謡曲番組へのニュー・ミュージック系ミュージシャンが、地すべり的に大量進出する傾向が決定的なものとなり、日本の音楽シーンの流れが大きく変わった。「ロック御三家」によって日本のロック・シーンが活況を呈し[49]、テレビを中心とした用意周到なメディア戦略で打って出たサザンオールスターズ[49]、それまで地味な活動を続けていたゴダイゴ[49]、甲斐バンド、柳ジョージ&レイニーウッドなどが続いた[49][注釈 6]。結果的にロックはアイドル化・歌謡曲化してゆくことでメジャー化し、巨大ビジネスとなっていったのである[50]。「ロック御三家」が開拓したローティーン向けロック・アイドルの系譜は今日まで絶えたことはない[51]。ロックアーティストがテレビと本格的に向き合う"尖兵"となった原田の登場は、後に続いた多くのポップシンガーに大きな影響を与えており、その功績は図り知れない[52][53]。

『ザ・ベストテン』で黒柳徹子から「ビーバーちゃん」という愛称を付けられる等 アイドル性が強調されたが、マスコミや業界の間では"生意気"で通っていた[12][注釈 7]。まだ10代という若さ、かわいいルックスと相反する明確な主張ゆえに衝突を生んだ。バラエティー番組での番組プロデューサーとのトラブル(後述)に始まり、新人でありながら「レコード大賞」等、日本音楽界の権威の象徴であった音楽賞への参加を早々に辞退したことでマスコミから叩かれた。まだ"アーティスト志向"という括りがなかった芸能界において、洋楽的志向の裏返しから脱アイドルを望み「アイドルじゃなくてアーティストです」と主張したりした[54][55][56][57]。「歌謡曲は最高にイヤ」[13]「芸能界の体制には巻き込まれたくない」[58]「全米でデビューしたい」 発言等、原田自身「『OUR SONG and all of you』に映る僕は生意気すぎて、今の僕にはまともに見れない[59]」「洋楽の世界のような音楽界にデビューしたつもりでいたのが、そこは厳しい日本の芸能界だった[60][61]」と当時を振り返り話している。

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