伊東四朗の出身高校

伊東四朗 タレント

伊東四朗卒業高校
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タレントランキング
1541位 / 2233人中 タレント別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1937年6月15日生まれ
血液型
O型

伊東 四朗(いとう しろう、1937年6月15日 - )は、日本のコメディアン、俳優、タレント、司会者。日本喜劇人協会相談役。本名は伊藤 輝男(いとう てるお)。東京都出身。五人兄弟(兄2人姉1人妹1人)の三男。

オルテ企画所属(「オルテ」は、本名「てるお」の逆読み)。兄は教育評論家の伊藤竹三。次男は俳優・タレントの伊東孝明。

東京府下谷区竹町(現在の台東区台東)にて、服地商の子として生まれる。父親は静岡県相良町、母親は同県掛川市の出身。男、女、男、男、女の5人きょうだいの上から4番目の三男が伊東。戦時中は母親の実家のある掛川市に疎開した。

子供の頃に工場跡地のトロッコで遊んでいたところ、トロッコが暴走し転倒。車輪の一部が伊東の左頬を貫通した。今でも伊東の左頬には傷跡が残っている。

東京都立市ヶ谷商業高等学校卒業後は就職を希望し数多くの面接を受けるも、目付きが悪い、人相が悪いことを理由に不採用が続き、伝手を頼って紹介された企業も入社試験を受けたが採用には至らなかった[7]。1958年伊東は早稲田大学生協職員に採用され、時間が出来ると観劇に様々な場所へ赴いた。その中で新宿フランス座の座付き俳優だった石井均は同じくこの年に劇団「笑う仲間」を旗揚げ、この舞台を見に足繁く通っていたため一座の役者が伊東の顔を憶えるほどになっていた。それらの経緯もあり、石井一座の役者から「君も(舞台で)やってみないか?」と誘われ、石井一座に参加。同期には財津一郎らがいた。

最初の芸名は、師匠の石井均に「いとうにしよう」と言われたことから「伊藤証(いとうしょう)」であったが(「一等賞」をもじって名付けられたとの説もある[8])、ポスターなどに名前が連なる時に「名前が一文字なため、先輩より目立つ。お前も2文字にしろ(→四朗)」ということで「伊東四朗」と改名した[9]。

石井一座は、浅草の松竹演芸場や新宿の新宿松竹文化演芸場を拠点に人気となる。石井に追随した戸塚睦夫も新宿フランス座々付でその剣劇や軽演劇仲間[10]であった三波伸介とは夜間キャバレーの営業に出ていたが、三波は劇場座付で残ったためスケジュールが合わないことがあり、戸塚は同じ座員の伊東に声を掛け代役に仕立て起用した。伊東は「(にせ)三波伸介」としてその後も急場を凌いでいたが三波が突然失踪し(その後大阪に行ったことが判明する。)伊東は三波の名でそのまま代役営業を余儀なくされ約一年余に渡り三波の帰京まで続けた。三波の復帰で交代はせず、代役は名を改め「伊東四朗」として夜営業のトリオとして継続した。伊東と戸塚は石井一座解散からこの活動に主点が置くようになったが、三波はこの夜の仕事とは別に個人単独の仕事を求め活動しテレビ出演の機会を掴み、その繋がりでトリオも1962年、正式にてんぷくトリオ(当初「ぐうたらトリオ」)としてテレビや一般の舞台へと進出した。トリオブームの中堅として素地の軽演劇経験を生かし、コントなどで舞台やテレビで徐々に人気となり、三波のギャグ「びっくりしたなぁ、もぅ」が大当たりして、茶の間の人気お笑いグループとしての地位を確立した。しかし三波が単独でこなす仕事も多く、てんぷくトリオの活動は限定されていたため、三波は戸塚と伊東にトリオから離れ個別で出演し活動するよう促した。努力家の伊東はダンスや楽器の練習などで芸を磨き、映画監督の市川崑は伊東を「てんぷくトリオの中の一番若くて一番やせている人。演技開眼したらしく、からだとセリフのタイミングが見事。おもしろい。」と1968年に期待する新進として挙げていた[11]。

1970年頃、『笑点』の札幌公演において、当時司会の前田武彦が天候不順で来られなくなり、急遽代理として三波伸介が司会をしたことがあった(三波は後に正式な司会に抜擢)。その際、座布団運びの代理は伊東が務めたので、伊東が正式な座布団運びになった可能性もあったというエピソードがある。

1972年から毎週日曜日に、三波らと共に出演していたNHKの『お笑いオンステージ』内「てんぷく笑劇場」での活躍が代表的である[12]。1973年に戸塚睦夫が42歳の若さで逝去し、てんぷくトリオの活動に困難が生じるも、三波と2人で「てんぷく集団」として活動を継続。“てんぷく”の名を守ったが、次第にそれぞれの個人活動へシフトしていき、実質的に休止状態となる。

1975年以降、三波の意向で「てんぷく」名での活動を抑制した頃、小松政夫との共演が話題になり、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』での親子コントや「電線音頭」でのベンジャミン伊東、『笑って笑って60分』での「小松の親分さん」などのネタで人気に火がついた。小松と2人で生み出したギャグがいくつもあるが、正月によく流れる琴による演奏の『春の海』を口で表現する「つん、つくつくつくつん。つん、つくつくつくつん。ひやーひんひらひらりー、べんべらべんべらべんべらべんべらべん」は伊東のオリジナルである。

また、「ずん」や「ニン」、「どーかひとつ」といったギャグも有名になった。「ベンジャミン伊東」としてのスタイルは、藤田まことら古くからのコメディアン仲間から「あいつはバカになったのか!?」と驚嘆されるほどのインパクトがあり、小林信彦からは大いに絶賛された。それまで「てんぷくトリオ」のサブ的役割だった伊東が、にわかに芸能界で存在感を示し始め、1979年にはTBS『ザ・チャンス!』の二代目司会者に抜擢された。

「ベンジャミン伊東」のキャラクター案は、伊東が自身の威圧的な顔にコンプレックスを持っていたため、「怖い顔でも面白い人はいないのか?」と考えた時に「サーカスの団長」が思い浮かんだことが発端となっている。スタッフから「衣装はどうしましょう?」と問われ、伊東は「サーカスの団長っていったら、こんな感じじゃないの?」と、台本の隅にサラサラと落書きのようなイラストを書いた。すると電線マン収録の際にイラストそのままの衣装が用意されていたという。

1982年12月8日、三波が52歳の若さで急逝する。訃報を聞いた際、伊東は三波が安置されている病院に向かい、報道陣の問いかけに「(三波の遺体を触った際に)まだ温かいんですよ。温かいものだから死んだ気がしなくて…」とそのショックを語り、葬儀でも号泣した。こうして、「てんぷくトリオ」は早くも伊東だけとなってしまう。翌1983年、NHK連続テレビ小説『おしん』の父親役に抜擢され、同ドラマが大ヒット。以後、活動の中心を俳優業に変え、シリアスな演技もできる実力派としての評価を得て、活躍の場を大きく広げた。また、俳優業のほか、バラエティ番組の司会も数多く担当する。数多くのドラマで父親役を演じてきたことや『伊東家の食卓』などのイメージで、他の芸能人からは「お父さん」と呼ばれることも多い。

自らを「喜劇役者」と位置づけており、いつまでもそうあり続けたいと語る。「三波も戸塚も死んだが、てんぷくトリオは解散したものではない、解散を口にしたことはない」[13]とも述べ、コメディへのこだわりも見せる。かつての喜劇役者仲間であり、親しい友人でもあった東八郎、関敬六、また渥美清や由利徹などといった浅草喜劇出身の役者たちが次々に冥界の人になって以後は、「浅草喜劇の伝統を後代へ引き継ぎたい」という想いと、「彼らの分まで、体が動く限り現役で頑張りたい」との想いが年々強くなっているという。

1997年、三宅裕司、小倉久寛らと共にオムニバスコントの舞台『いい加減にしてみました』を上演する(2002年・2010年にも上演)。この流れで、今ではあまり見られない典型的な喜劇・軽演劇の舞台を再現しようと、2004年、『伊東四朗一座 〜旗揚げ解散公演』を上演した(タイトルからも分かるように最初で最後の予定であった)。この公演は当日券を求める客があふれるほどで、多くのリクエストを受けて、翌2005年には『伊東四朗一座 〜急遽再結成公演〜』を上演する。その後、2006年・2007年には伊東が参加しなかったため、三宅らは「熱海五郎一座」[14]と銘打って活動する。2008年には再び伊東が加わり「伊東四朗一座」として公演を行う。2009年には「伊東四朗一座・熱海五郎一座合同公演」が上演された。現在は年1回のペースで活動。伊東四朗一座の舞台公演作品はDVD化もされている。

この他にも舞台公演は精力的に行っている。角野卓造、松金よね子、佐藤B作・あめくみちこ夫妻らとともに「西荻窪エリアでお酒を飲みながら語らう会」(西荻の会)を結成し、実際に西荻窪エリアで酒を飲みながら語らっていたが、ある時会の外から「このメンバーで芝居を」との提案を受けたことから、2011年、本多劇場にて西荻の会による介護コメディー『ロング・ロスト・フレンド』を上演した。

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