中丸薫の出身高校

中丸薫 コメンテーター

中丸薫卒業高校
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性別
男性
生年月日
1937年5月23日生まれ

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中丸 薫(なかまる かおる、1937年5月23日 - )は日本の国際政治評論家。明治天皇の孫を名乗っているが、異論もある(後述)。また、クレオパトラや推古天皇などの生まれ変わりとも称している。“国際問題研究所『太陽の会』”(有限会社)総裁及び代表を称する。日本ペンクラブ会員。

日本赤十字の看護師として大陸に渡り、満洲事変から日中戦争時期に抗日兵士の帰順工作を行ったという中島成子の娘として中国で生まれる。父親は明治天皇の隠し子と噂される堀川辰吉郎であると主張している。ただし中島成子の夫は中国人の韓景堂であり、中島も韓又傑、韓太太(「太太」とは中国語で“奥様”)と呼ばれていた。神野洋三『祖国はいずこ―韓又傑こと中島成子の生涯―』(作品社、1995年)、渡辺龍策『馬賊―日中戦争側面―』(中公新書、1964年)など、いずれの資料も中島成子の夫は韓景堂と記しており、堀川辰吉郎との関係については記述がない。森川哲郎は「この中島女史が、どういうわけか堀川氏と親交が深かったのである。一説には父娘だという噂もあるが、その真偽のほどは明らかでない」と記す。

著書によれば、薫の生後45日後に盧溝橋事件が起こり、中島成子は関東軍の依頼により日中間の交渉を担うことになったため、薫は松村正之北京大学教授[要検証 – ノート]夫妻に預けられた。6歳の誕生日を迎えてまもなく、松村夫妻の故郷である山梨県甲府市に移住。1950年に山梨英和女学院中等部に進んだという。そこで外国人教師から英語を学んだことがきっかけとなり、東京へ行くことを決意。猛勉強の末、親戚が住んでいた文京区にある東京都立小石川高等学校に進学した。当時、小石川高校は1クラス約60名の生徒のうち、女子は10名程度しかいなかったが、薫は2年生のときに生徒会長に選ばれ、卒業するまで務めたという[7]。また、英語研究会のリーダーを務め、第五福竜丸事件など当時の社会情勢に強い関心を持ち、友人らとカール・マルクスの『資本論』を読む勉強会も実施していた[8]。

バーナード大学を経て[9]コロンビア大学政治学部に入学、東アジア研究所で国際政治学を専攻し卒業[10]。1970年代より、各国国王や大統領、首相、財界人やVIP、映画監督や芸術家などをインタビューするジャーナリスト、国際政治評論家として講演、執筆、テレビで活動。1973年にはニューズウィーク誌で「インタビュアー世界NO1」、またワシントン・ポスト紙で「国際感覚にすぐれた世界でも稀有な女性」との評価を得る。[要検証 – ノート]

その後も自らがプロデューサー、ディレクター、インタビュアーを務める対談番組を日米両国で持つと同時に、世界の紛争、戦争地帯に足を運び、当事国の国家元首たちと積極的に会談。その中には、リビアのカダフィ大佐やイラクのサッダーム・フセインなど、西側諸国から敵視されていた人物もいた。中丸はイラン・イラク戦争の最前線でも取材を行い、そのVTRをフセイン大統領に見せて戦争をただちにやめるよう進言している。フセイン大統領に「なぜ戦争を続けるのか」と詰め寄る様子や、カダフィ大佐に「あなたは本当にテロリストか」と問いただす姿はテレビで放映された。それらの経験を通じて、私費を投じて紛争国の仲介役を務めるなど、民間外交に尽力するようになる。

1985年に[要検証 – ノート][11]“The International Affairs Institute for World Peace”(国際問題研究所)をニューヨークで、また1991年に平和を願う人々の会"Following the Sun Association”(太陽の会)を設立。その際、各国国王や大統領、文化人から「あなたのあらゆる活動に賛同いたします」との直筆サインをもらい、これら要人を顧問および特別会員として迎えている。これらの会の立ち上げにより、武力と緊張を礎とする「力の道」による「ワンワールド」ではなく、相互理解と信頼を礎とした「命の道」による「ワンワールド」の実現を啓蒙する活動を本格的に開始した。インタビュアーとして活躍していた頃からこれまでに訪問した国は186カ国。

中丸は著書において、「人間復興を通した世界平和」を目指しているとし、「富や名声、権力が人間を幸せにするのではなく、本当の幸せは愛、調和、安らぎに満たされた心から生まれる。市民からVIPまで、一人一人の心の内側を平和にすることが世界平和を実現する」と訴えている。「太陽の会」という名称も、イソップ物語の「北風と太陽」にちなんで命名。中丸は著書の中で、「太陽はどんな人をも温かい光で包み込む。私たちもそのような心で生きなければいけない」という主旨のことを度々書いている。

1966年、俳優・中丸忠雄と結婚(2009年に死別)。一男一女がいる。長男の中丸忠弥[12]は中丸薫の著書『明治天皇の孫が語る闇の世界とユダヤ』の装画を担当している。

両親がともに日中友好のために力を尽くしたことから、中国とは国交回復以前から太いパイプがあり、当時の田中角榮首相、大平正芳外相ら政府要人や外務省職員に中国情勢をレクチャー。日中国交正常化の一翼を担った。1970年代から1980年代には三木武夫、福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三らと親交を深めた。

中丸が実父と考えている堀川辰吉郎は、明治天皇の名前を出さぬまま明治天皇の落胤と人に思わせる術に長けた人物であった[13]。これを受けて、中丸は著書『対米外交・対中外交』p.186(サイマル出版会、1971年)以来、明治天皇の孫を自称し、英文のプロフィールではPrincess Kaoru Nakamaru(中丸薫王女)を名乗っている[14]が、本当に明治天皇の孫なのかどうかをめぐり2004年に韓国で物議をかもしたことがある[15][16]。

中丸が「文藝春秋」1974年9月号に載せた手記「明治天皇の落胤――側室千草任子がひそかに生んだ子こそ」によると、堀川の父は明治天皇、母は女官の「千草任子」(ちくさことこ)で、任子は大奥の争いに敗れて宮廷を追われ、京都の堀川御所で辰吉郎を産み、辰吉郎20歳の折に病没したという。しかし、確かに千種任子という女官は実在したものの、任子の甥の娘である慧子と栄子は

など、中丸の手記に見える多数の間違いを指摘し、面識もない者にこんなことを書かれて困惑している旨を表明した[17][18]。この結果、中丸の手記は単行本化の際に「千種」の表記だけが修正された。

宮内庁宮務課長の小川省三は1976年頃にクウェート大使館から中丸の身元について「アラブの王族に対し、天皇の子孫であるというような自己紹介をしているが本当か」と照会を受け「そのような事実はない」と否定した[19]。一方、中丸自身は「父は出生してすぐに天皇家から外に出されたので、記録は残っていません。でも、私が明治天皇の孫であることは世界186ヵ国・200人以上のリーダーの方々が知っていることですから……。今の宮内庁は官僚が取り仕切っていて、深い事情を知る人もいなくなりました。私は今でも亡くなって天界にいる父とコミュニケーションしていますが、父も皇室のことを心配していますよ」と発言している[16]。

皇室ジャーナリストの河原敏明は、「堀川氏は孫文をたすけたこともある右翼の壮士だった人。明治天皇の落胤との噂もあるが、一般的にいえば、大陸浪人とか右翼の壮士といわれる人の話は、割引きして聞かねばならない。中丸薫さんの出生そのものが判然としないし、また堀川氏がご落胤というのも噂にすぎない。もちろん宮内庁では相手にしていない。こうなると、中丸さんが明治天皇の孫だという確率はゼロにも等しいわけである」と述べている[20]。

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